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『LOFT ロフト』(2006)黒沢清はホラー×恋愛で何を暴こうとしたのか?

『LOFT ロフト』(2006)
映画考察・解説・レビュー

6 OKAY

『LOFT』(2006年)は、黒沢清監督がホラーと恋愛という相反するジャンルを融合させた異色作。中谷美紀演じる作家と、豊川悦司演じる考古学者が廃屋で出会い、禁断の関係へと沈み込む。古代ミイラをめぐる恐怖と恋慕の狭間で、人間の孤独と欲望が静かに蠢く。黒沢清の映像美と心理描写が、ホラーの定型を超えて“愛の残酷さ”を映し出す。

ジャンル映画に自覚的な映画作家・黒沢清

黒沢清は、自らの物語がジャンル映画に隷属していることを自覚的に描く映画作家だ。むしろ彼は、ジャンルを再解釈し現代に蘇らせる職人肌の監督だと言っていいだろう。

トビー・フーパーやジョン・カーペンター、サム・ペキンパーといったアメリカ映画の職人監督が1970年代に発表したジャンル映画を、21世紀の日本に置き換えて再構築する。これは極めてシネフィル的な振る舞いであり、黒沢映画の特徴だ。

そのジャンル横断的な試みがもっとも露わになるのが、『LOFT』(2006年)だ。『CURE』(1997年)や『回路』(2001年)においては、全体をアンダー気味のブルーグレイの映像が支配し、感傷を排した冷徹なトーンが貫かれていた。ところが『LOFT』では、物語の骨格に恋愛映画が織り込まれているため、色彩設計が一変する。

オープニングから草木萌ゆる深緑がスクリーンを満たし、西島秀俊の赤いシャツや黄色いゴミ袋など、鮮烈な色彩が画面を覆っていく。恋愛映画としての骨格を有する以上、キャラクターの感情に寄り添うエモーショナルな色彩設計が必要だったのである。

一方ホラー描写においては、黒沢清のアイディアと技法の総博覧会。鏡を用いた小道具、バイアスのかかった斜めの構図、アンダー気味の照明など、彼がこれまで積み重ねてきた恐怖演出が惜しみなく投入されている。

さらには、中川信夫の怪談映画を思わせるような“ヒュードロドロ系”のベタなBGMまで登場する。ここには、ホラー映画の王道フォーマットを確信犯的に踏襲する黒沢の姿勢が見て取れる。

ジャンル映画のクリシェをあえて再演することによって、観客に「これはホラー映画である」という自己言及的なサインを送り続けているのだ。

東海道四谷怪談
中川信夫

恋愛とホラーの混濁する後半パート

物語が進むにつれ、豊川悦司演じる小説家のオブセッションが現実世界を侵食し、ホラーと恋愛の境界線が曖昧になっていく。観客は次第に物語の筋を追うよりも、ジャンルの混濁そのものに巻き込まれていく感覚を味わうことになる。

特に後半、中谷美紀と豊川悦司の関係はラブロマンス的に描かれるが、そこに忍び込むホラー的要素が両者を飲み込み、最終的には 「ホラー映画と恋愛映画が混成するプロセス」 自体がテーマとなっていく。

ラスト近くで豊川悦司がミイラに向かって叫ぶ「動けるんだったら最初からそうしろ!」というセリフは、まさに映画が自らを茶化すような自己言及的瞬間だ。

「ホラー映画なんだから、観客はミイラの動きを期待しているはず!」という暗黙の了解を、映画自身があざ笑う。ここに至って『LOFT』は、ジャンル映画でありながら、ジャンルそのものを語る“メタ映画”へと変貌する。

中谷美紀と豊川悦司という俳優の越境性

この映画が成立し得たのは、主演の中谷美紀と豊川悦司というキャスティングの妙でもある。二人はホラーと恋愛という異なるジャンルを自在に越境できる稀有な俳優であり、その存在が映画のジャンル的振幅を担保している。中谷の透明感と豊川の執念深さが、物語の両義性を体現しているのだ。

『LOFT』は単なるホラーでも恋愛映画でもない。黒沢清がジャンル映画に自覚的であるがゆえに、複数のジャンルを交差させ、その結果として映画そのものが「自分はホラーである」と自己言及する段階に達した作品である。

ジャンルを踏襲しながら、そのジャンルを批評的に相対化してしまう。この二重構造こそが『LOFT』の核心だ。

FILMOGRAPHY