宮崎駿が描く、オジサン目線の「あるべき共同体」
極端な話をしてしまうと、摩擦係数が高ければ高いほど、物語としての緊張感は増幅されるものである。
例えば、愛し合う主人公とヒロインが、何の障害もなくあっさり結ばれてしまえば、そこには何のドラマも生成されない。
第三者が現れて二人の交際を阻むだとか、好きあっているけどお互いの親が不倶戴天の敵同士だとか、つきあっちゃうと何故か分からんけど宇宙が爆発しちゃうだとか、そーいう摩擦が発生するような仕掛けを施さないと、物語の吸引力が低下することは自明の理。
その意味で『崖の上のポニョ』(2008年)は、序盤の摩擦係数はおっそろしく高い映画だ。何しろ、5歳児の少年・宗介に逢いたい一心でポニョは海底からやってくるのだが、そのせいで荒れ狂う津波を引き起こしてしまい、宗介の棲む街をてんやわんやの大パニックに陥れてしまうのだから。
はっきりいって、『デイ・アフター・トゥモロー』(2004年)並のディサスター・ムービー!!波にのってポニョが宗介を追いかけまわすシーンには、「可愛らしさ」と「恐ろしさ」が同居しているのだ。
“破壊の神”であるポニョは、いかにして人間界に認知され、宗介と共に暮らすことを許されるのか。これが物語の後半部を牽引するフックになるはずなのだが、宮崎駿はここで大胆な決断を下す。
つまり、人間界に認知されるプロセスを完全にシカトして、人間界で暮らすための準備を周到に用意したうえで、ポニョと宗介を迎え入れようとするのだ。
人間界に認知されるプロセスとは、映画内でいえば宗介の母・リサと、ポニョの母・グランマンマーレの談合シーン。この二人の話し合いの内容はいっさい観客に提示されず、常人であれば三日三晩は悩むであろう未曾有の事態を、リサがあっさり受け入れる(ポニョを人間の子供として育てる)ことのみが示される。
最も摩擦係数が高くなるであろうこのシーンに対して、宮崎は一切の摩擦を引き起こすことを拒否するんである。
それはおそらく、あるコミュニティに異者を迎え入れるプロセスを描くにあたって、本来ならば不可避的に発生してしまうある種のキナ臭さ、生々しさが露出してしまうことに対して嫌悪感を感じたからではないか。
結局宮崎が描きたいのは、綿密な計算によるドラマの構築よりも、オジサン目線による「あるべき共同体」なのだ。
そもそもこの企画は、スタジオジブリの社員旅行で訪れた瀬戸内海の港町・鞆の浦に、宮崎が惹かれたことから始まったそうである。崖の上の一軒家に単身滞在して、彼の念願だった“海を舞台にした作品”のイメージは急速に固まっていった。
鞆の浦の地で産み出されたのは、宮崎自身の理想郷。足が悪かったおばあちゃんが走れるようになるのも、全て彼自身が創りだしたマジカルワールドであったからこそだ。『崖の上のポニョ』は、何よりもまず宮崎駿が治癒されるべく作られた映画なんである。
- 製作年/2008年
- 製作国/日本
- 上映時間/101分
- 監督/宮崎駿
- 原作/宮崎駿
- 脚本/宮崎駿
- プロデューサー/鈴木敏夫
- 製作/星野康二
- 音楽/久石譲
- 作画監督/近藤勝也
- 美術監督/吉田昇
- 色彩設計/保田道世
- 編集/瀬山武司
- 整音/井上秀司
- 山口智子
- 長嶋一茂
- 天海祐希
- 所ジョージ
- 奈良柚莉愛
- 土井洋輝
- 柊瑠美
- 矢野顕子
- 吉行和子
- 奈良岡朋子
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