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2017/8/12

CURE/黒沢清

『CURE』──なぜ「癒し」は人を狂わせるのか?黒沢清が問う倫理の臨界

『CURE』(1997年)は、連続猟奇殺人事件を捜査する刑事・高部が、記憶喪失の放浪者・間宮と出会い、不可解な事件の真相に迫る物語。尋問の中で浮かび上がる人間の暴力と“癒し”の関係が、やがて彼自身をも巻き込んでいく。

ペルソナの自覚と無自覚

1997年に公開された黒沢清の『CURE』は、今や監督の代表作として国際的にも高く評価されている。だが、この作品が公開された時代背景を振り返れば、その衝撃度は一層鮮明になることだろう。

1995年。この年はオウム真理教事件を経て、“マインドコントロール”という言葉が日本社会に広く浸透していた時期。メディアは連日のように「情報操作」や「洗脳」といった語を使い、人間の心がいかに他者によって支配され得るかを報じていた。

そうした時代状況と重ね合わせるように、『CURE』は「人間の内奥に潜む暴力が外部から喚起される」というテーマを孕む。しばしば“マインドコントロール映画”とラベルづけられたこともあったが、黒沢清の映画世界は単純な社会風刺には還元できない。むしろ本作は、人間が社会的秩序の中で身につけた「ペルソナ」という仮面の脆弱さを暴き出す実験だった。

主人公の高部(役所広司)は、捜査一課の刑事として日々職務に追われ、家庭では精神疾患を抱える妻(中川安奈)を支えている。一見すると献身的な良き夫であり、冷静沈着な刑事だ。しかしその内面には、妻へのフラストレーションが鬱積し、抑圧された感情が渦巻いている。

高部は「刑事は感情を表に出さない」という行動規範を自らに課し、社会的役割に忠実であろうとするが、その姿はまさにユング心理学でいう「ペルソナ=仮面」に囚われた現代人そのもの。

対照的なのが、大杉漣演じる刑事部長だ。間宮(萩原聖人)から「あいつら何にも分かってないんじゃない」と糾弾されるように、彼は自らのペルソナに無自覚。表層的な役職意識にすがり、外見や振る舞いも薄っぺらに映る。

ズラのように不自然な髪型までもが、表層的人格の偽装を象徴しているかのよう。黒沢は人物造形において、社会的仮面の自覚度合いの違いを鮮やかに描き分けている。

癒しの二重性 ― CURE とは何か

物語の中核を担うのは、萩原聖人が怪演する放浪者・間宮。彼は他人に対し「あなたは誰?」と問いかけることで、相手のペルソナを剥ぎ取っていく。

この行為はしばしば“洗脳”や“暗示”と解釈されてきたが、本質はむしろ逆。間宮は「社会的秩序によって押し込められた感情」を掘り起こし、それを承認し、行為へと導く触媒に過ぎない。

むしろ彼の働きは「外部からの操作」ではなく、「内部からの解放」。そこには善悪の概念は存在しない。善悪すらも社会秩序を維持するための装置にすぎず、人間の心の奥底にはそれを超えた衝動が眠っている。だからこそ、間宮の存在は恐怖と同時に奇妙な救済のイメージをも孕んでいる。

タイトルに冠された「CURE」という語は、まさしく「解放」「救済」「癒し」「治療」「矯正」といった多義性を持つ。本作では、その意味が多層的に展開される。

精神科医の佐久間(うじきつよし)は、良心の呵責と社会的責務のはざまで苦悩し、最終的に自死を選ぶ。これは「罪悪感からの解放」としての“癒し”だ。対して高部は、妻を殺害することで心身ともに解放される。

以前は口にできなかったファミレスの食事を平らげる姿は、彼が新たな癒しを得たことを象徴している。だがその癒しは、倫理の否定と引き換えに成立する危ういものだ。

黒沢が提示するのは、癒しと破壊が表裏一体であるという厳然たる真理である。我々は癒しを求めるがゆえに倫理を越境してしまう。その瞬間、社会的秩序は崩壊し、人間の根源的暴力が姿を現すのだ。

オールド・ファッションな意匠と映像言語

興味深いのは、黒沢清が現代的なテーマを扱いながら、意識的に時代錯誤な意匠を選んでいること。

中川安奈が入院する病院は古びた建築様式で、看護婦の制服も前時代的。蛍光灯ではなく白熱灯の鈍い明かりが、場面に独特の鈍色の質感を与えている。ここでは“過去の時間”が意図的に保存され、空間そのものが一種の記憶装置として機能している。

間宮が見せる19世紀末の催眠術フィルムは、『リング』(1998年)の呪いのビデオを想起させるが、その用途は根本的に異なる。『リング』が映像を媒介とした“感染”を描くのに対し、『CURE』では映像が人間の深層意識を開く“鍵”として使われる。映像そのものが催眠的であり、スクリーンの向こう側にある“もうひとつの現実”へ観客を導く装置となっている。

さらに象徴的なのが、役所広司を最終的に解放へと導く蓄音機の存在だ。アナログな機械から流れる音が“癒し”を与えるという構図は、現代社会のデジタル的な情報操作とは対照的だ。

黒沢はこの場面において、20世紀初頭の科学技術に潜む“魔術性”を再発見している。つまりテクノロジーがまだ宗教的信仰や呪術と地続きだった時代への回帰であり、そこに“科学とオカルトの境界を攪乱する映画”という黒沢的主題が横たわっている。

こうした古典的装置への執着は、『CURE』以前の作品にも一貫して見られる。たとえば『地獄の警備員』(1992年)では、老朽化した警備会社のオフィスが舞台となり、錆びついた鉄扉や不気味な非常灯が現実の崩壊を暗示していた。

また『ドレミファ娘の血が騒ぐ』(1985年)では、廃校になった音楽学校のホールに残された古いピアノが、抑圧された欲望を呼び覚ます“記憶の遺物”として機能している。黒沢にとって、過去の遺物とは単なる美術的要素ではなく、封印された時間を再起動させるトリガーなのだ。

『CURE』における蓄音機も、その延長線上にある。ここで流れる音は、単なるBGMではない。それは“無意識の声”であり、現代という時間軸を一瞬にして過去へと引き戻す呪文である。

黒沢の映画において、音と映像は常に「現在を溶かす媒介」として機能してきた。『LOFT』(2005年)でミイラが横たわる倉庫を包む沈黙、『トウキョウソナタ』(2008年)で家族のリビングに響くピアノの音、それらはすべて現実を断絶させ、観客を別の次元へ滑り込ませる。『CURE』では、この“音による異界化”が最も純粋なかたちで結晶している。

映像表現に目を向ければ、黒沢独特の長回しや画面奥に潜む気配が、観客の不安をじわじわと煽る。彼が長回しを好むのは、“時間を切り取らずに観察する”という倫理に近い。

カットを割ることは現実を操作することだが、長回しは現実をそのまま差し出す。黒沢はこの静謐な撮影法によって、映像の中に「時間の実在」を呼び戻しているのだ。

無音や環境音を強調した音響設計もまた、現実の延長線上に潜む異常を際立たせている。特に高部がトンネルの中を歩くシーンでは、風の音と靴音だけが響き、観客は“世界がすでに壊れている”という感覚に包まれる。

『CURE』は決して説明的ではなく、映像そのものが観客を“解放”へと誘導する構造を持っている。そこではセリフや筋書きよりも、光と音のリズムこそが物語の核心となる。

『CURE』の映像は、古びているのではなく、“古びて見えるように作られている”。その意図的なレトロスペクティブこそが、現代の観客に「過去がまだ終わっていない」という感覚を呼び起こす。

黒沢清は、“現在”という時間を信じていない。彼にとって映画とは、常に過去と現在、記憶と現実、死者と生者が交錯する儀式なのである。

いまなお私たちを捉え続ける恐怖

『CURE』は黒沢清のキャリアにおいて転換点となった作品でもある。『スウィートホーム』(1989年)や『地獄の警備員』(1992年)ではジャンル的枠組みの中で猟奇性を探求していたが、本作では犯罪映画と心理ホラーを融合させ、国際的評価を獲得した。

その後の『回路』(2001年)や『贖罪』(2012年)へと連なる「孤立と感染」のテーマはすでに『CURE』に胚胎しており、黒沢映画の原点として位置づけられる。

同時期の日本映画を見渡せば、中田秀夫監督の『リング』、清水崇監督の『呪怨』(1999年)といったJホラーが世界的ブームを巻き起こしている。『CURE』はその潮流と並走しながら、より哲学的・実存的な恐怖を提示した点で特異な存在だ。

『CURE』は「癒し」という名のもとに倫理の境界を踏み越える人間の姿を描いた。恐怖すべきは間宮の怪異性ではなく、我々自身が癒しを求めるがゆえに暴力へと突き進んでしまうという現実である。

SNS時代のいま、「承認欲求」や「集団心理」が人間の行動を左右する様は、はるか前に『CURE』が先取りしていた。癒しの裏に潜む破壊性を見つめたとき、私たちはまだこの映画の問いの檻から逃れられてはいないことに気づくのである。

DATA
  • 製作年/1997年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/111分
  • ジャンル/サスペンス、スリラー、ホラー
STAFF
  • 監督/黒沢清
  • 脚本/黒沢清
  • 製作/加藤博之
  • 制作会社/大映
  • 撮影/喜久村徳章
  • 音楽/ゲイリー芦屋
  • 編集/鈴木歓
  • 美術/丸尾知行
  • 録音/郡弘道
  • 照明/金沢正夫
CAST
  • 役所広司
  • 萩原聖人
  • うじきつよし
  • 中川安奈
  • 洞口依子
  • 戸田昌宏
  • でんでん
  • 螢雪次朗
  • 大鷹明良
  • 大杉漣
FILMOGRAPHY