“生”と“死”を緩やかに繋ぐ、『Love Letter』の変奏
昨今の日本映画は、基本的に誰かが生命を落とさないとラブストーリーとして成立しないらしい。
世界の中心で誰かが叫んだり、いま会いに行ったり行かなかったりするような作品が拍手喝采を浴びたからだろうが(僕は両方とも観ておりませんが)、個人的にはいかがなものかと思う。
そうとうノット・オーディナリーな設定をカマしておかないと、純愛のリアリティーが確保できない、そんな時代なのだろうか。そんな時代なのだろう。
『虹の女神 Rainbow Song』(2006年)もまた、上野樹里演じる身近な女性の「死」によって、市原隼人が自分にとって最も大切な存在を気づかされるという物語である。
思えば本編のプロデューサーを務めている岩井俊二は、かつて中山美穂の神懸かり的な可愛らしさが光った『Love Letter』(1995年)において、同様なプロットのラブストーリーを繊細なタッチで描き出していた。
確かに『虹の女神 Rainbow Song』から導きだされる感傷性は、『Love Letter』に近似している。しかしそこに刻印されている「悲痛レベル」はだいぶ異なる。
『Love Letter』では、もうこの世には居ない人から届けられたラブレターが“生”と“死”を緩やかに繋ぐブリッジだったが、『虹の女神 Rainbow Song』においてその役割を果たすのは8ミリ映画だ。
その息づかい、身のこなし、声、視線、空気。その全てがフィルムに焼き付いている。本来であれば不可逆であるはずの「時間」という概念が、映像というメディアに転化されるやいなや、いつでも再生可能なものとなる。ここに真の残酷性が秘められている。
かつて、ビデオ作家ナム・ジュン・パイクは
一度ビデオに撮られると、もはや人は死ぬことは出来ない
と語った。愛する人を失うということは、もう二度と帰らない季節に思いを馳せることと同義のはず。しかし、『THE END OF THE WORLD』と名付けられた一本のフィルムが、容易にあの季節への帰還を実現させてしまう。
現実には結ばれなかった二人が、映画内では愛し合っているという皮肉。死が単なる感動の発動機ではなく、かつての記憶が刻印されてしまうことの痛みを発生させる装置として作動していることが、『虹の女神 Rainbow Song』の特殊性なのだ。
甘く美しい記憶に満ちた少女マンガ的コードが、例えようのない喪失感を増幅させる。
- 製作年/2006年
- 製作国/日本
- 上映時間/117分
- 監督/熊澤尚人
- 製作/岩井俊二、橘田寿宏
- プロデューサー/橋田寿宏
- 脚本/桜井亜美、齊藤美如、網野酸
- 原案/桜井亜美
- 撮影/角田真一、藤井昌之
- 美術/川村泰代
- 音楽/山下宏明
- 照明/佐々木英二
- 市原隼人
- 上野樹里
- 蒼井優
- 酒井若菜
- 鈴木亜美
- 相田翔子
- 田山涼成
- 鷲尾真知子
- 小日向文世
- 田島令子
- 佐々木蔵之介
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