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『汚名』(1946)愛と任務の檻で狂うスパイたちの肖像

『汚名』(1946)
映画考察・解説・レビュー

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『汚名』(原題:Notorious/1946年)は、アルフレッド・ヒッチコックが監督し、ケーリー・グラントとイングリッド・バーグマンが共演したスパイ・サスペンス映画。第二次世界大戦直後のアメリカを舞台に、売国奴の娘アリシアは、連邦情報部員デヴリンの指令でナチ残党の組織に潜入し、幹部アレックス・セバスチャンと結婚する。愛と任務の板挟みの中で、彼女は危険な二重生活を続けるが、恋人デヴリンとの関係は次第に崩壊の兆しを見せ始める。

スパイ映画の皮を被った、「小柄な男」の哀切すぎる純愛地獄

あまたのヒッチコック作品の中で、あのフランソワ・トリュフォーが「これこそが最も愛すべき一本」と断言したのが『汚名』である。たぶんこれは、単なる映画監督としての敬意なんて生易しいものじゃない。もっとドロドロとした、自己投影の共鳴だろう。

クロード・レインズ演じる敵役のアレックス・セバスチャン。彼は愛する女性に徹底的に裏切られ、利用される。この「愛の敗北者」としての小柄な男の姿に、トリュフォーは自身の影を痛烈に見たに違いない。

実際、名優クロード・レインズはイングリッド・バーグマンよりも背が低かった。この“身体的ディティール”が、映画に抗いようのない悲劇性を呼び起こす。

トリュフォーの代表作『ピアニストを撃て』の主人公シャルリも、愛の喪失と屈辱の中で彷徨う男だった。ヒッチコックが描いたスパイの恋愛劇は、トリュフォーにとっては手に汗握るスリラーなどではなく、愛に敗れた男の血を吐くような私小説だったのだ。

『汚名』をセバスチャンの視点で見つめ直すと、そこにあるのは愛国心でもスリルでもなく、ただひとつの、喉の奥を締め上げるような哀切。愛する女に裏切られ、最後はナチの仲間にリンチされることを予感させながら扉の向こうへ消えていく。

あの「見せない暴力」のカットこそ、ヒッチコックがトリュフォーに、そして我々に叩きつけた“沈黙の映画的抒情”の極致なのだ。この絶望感、最高にエグすぎる。

「キスは3秒まで」を逆手に取ったヒッチコックの変態的演出術

『汚名』は、スパイ映画の皮をかぶった「愛の檻」の物語である。売国奴の娘という社会的“汚名”を背負わされたバーグマンが、愛するデヴリン(ケーリー・グラント)の命令一つで、敵スパイの妻になる。この設定だけでもう、恋愛という名の拷問装置が完成しているではないか。

彼女が危険な任務に身を投じる理由は、国家の平和なんて高尚なものじゃない。ただひたすらに「愛する男に認められたい」という恋愛至上主義。国家の大義なんてものは、ヒッチコックにとっては男女の支配と服従を際立たせるための、安っぽい装飾に過ぎないのだ。

そして、伝説の“制限付き長回しキスシーン”。当時のヘイズ・コード(映画検閲基準)では「キスは3秒まで」というバカげたルールがあった。だがヒッチコックは、ここで天才的なツッコミを入れる。

3秒ごとに唇を離し、ささやき、また触れる。これを繰り返すことで、一本調子のキスよりも遥かにエロティックで、執着に満ちた愛のグルーヴを生み出したのだ。制約を逆手に取ってリズムを発明する、これぞヒッチコック流の皮肉なユーモア。

そして、普段はご陽気なプレイボーイを演じるケーリー・グラントが、ここでは終始無表情で嫉妬を押し殺している。愛しているのに、地獄へ送り出す命令を下す――この“愛の残酷な形”が、映画全体をスリラーを超えた重厚な心理劇へと変貌させている。

「鍵」に託された数ミリ単位のサスペンスと裏切りの余韻

ヒッチコックの演出美学が爆発するのは、あのワインセラーのシーンだろう。クレーンショットで広大なパーティー会場を映し出し、そこから一気にバーグマンの手元へズームする。

彼女が握りしめているのは、秘密のワインセラーを開ける「鍵」(この圧倒的な視覚的強調!)。さらに、レインズが彼女の左手にキスをしようとする瞬間、彼女は抱擁を装って鍵を床に落とす。この一連の「手の演技」の緊張感たるや、現代のアクション映画の爆発100回分よりも遥かに心臓に悪い。

鍵は愛の象徴であり、同時に「秘密」と「支配」のメタファーでもある。鍵が床に落ちる数ミリの距離に、恋愛関係の主導権の移動が凝縮されているのだ。

ヒッチコックにとってサスペンスとは、人を殺すための道具ではない。人を愛すること、信じることの不可能性を暴き出すための残酷な仕掛けである。

恋愛が成就してハッピーエンドになった瞬間に、映画的なサスペンスは死ぬ。だから彼は、愛が崩壊する直前の、最も鋭利な痛みの中で物語を終える。

ラスト、セバスチャンが扉の向こうへ追い詰められていく静寂。観客の想像力はフル回転するが、そこには一切の救いがない。愛する者に裏切られた男の悲劇という重すぎる余韻。これこそが、僕たちが『汚名』という魔力から一生逃れられない理由なのである。

DATA
  • 原題/Notorious
  • 製作年/1946年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/101分
  • ジャンル/サスペンス、恋愛
STAFF
  • 監督/アルフレッド・ヒッチコック
  • 脚本/ベン・ヘクト
  • 製作/アルフレッド・ヒッチコック
  • 撮影/テッド・テズラフ
  • 音楽/ロイ・ウェッブ
  • 編集/セロン・ウォース
  • 美術/アルバート・S・デアゴスティーノ、キャロル・クラーク
  • 衣装/イーディス・ヘッド
CAST
  • イングリッド・バーグマン
  • ケーリー・グラント
  • クロード・レインズ
  • ルイス・カルハーン
  • レオポルディーネ・コンスタンチン
  • ラインホルト・シュンツェル
  • モローニ・オルセン
FILMOGRAPHY