あまりにも過酷な「現実」をしっかりと受け止め、己の責任によって遂行する映画
一緒に『ミリオンダラー・ベイビー』(2005年)を観にいったS嬢は、「観なきゃ良かった・・・」と目を腫らしながら僕に訴えた。
正直スマン。僕だってコレ、女性ボクサーの立身出世物語だと思っていたのよ。「トレーラー育ちの貧しい女の子が、頑固オヤジのトレーナーと協力してプロボクサーの夢を叶える」というサクセス・ストーリーに胸を膨らましてたのよ。
しかしイーストウッドが提示したのは、「全身麻痺に陥った女性ボクサーを、老トレーナーが安楽死させる」という、尊厳死の物語であった。主人公が所属しているのはウェルター級だが、話はスーパーヘビー級に重い。参った。
この映画においてイーストウッドが演じるフランキーは、ヒラリー・スワンク演じるマギーに「自分の身は自分自身で守れ」と諭しつづける。おそらくこの言葉は、彼が世に出るきっかけとなった西部劇でも代入可能だろう。あるいは、彼の最大の当たり役であるダーティ・ハリーのセリフとしても。
警察の手が及ばない悪に対し、ダーティ・ハリーは己の信念に基づいて、正義の鉄槌を食らわせる。本編におけるフランキーもまた、神父の忠告を無視して「死を与える」という神の役割を担っていく。
アカデミー賞を総なめしたこの映画が、なぜか脚本賞ではノミネートもされなかったのは、あまりにもキリスト教圏では禁忌とされる領域に踏み込んだから、と思われる。
あまりにも過酷な「現実」をしっかりと受け止め、己の責任によって遂行する映画。そう、彼はそのフィルモグラフィーにおいて、常に責任を引き受けてきた。その是非はともかく、彼はあらゆる映画内の営為に対しての責めを負ってきたのである。
「彼女は神に救いを求めているんじゃない、俺に救いを求めているんだ」と教会で語るシーンには、その信条が最も色濃く反映された場面だと言える。
例えば、「不幸な人間がもっと不幸になる」という沈痛極まりない物語をエキセントリックに綴る、ラース・フォン・トリアーとの決定的な違いは、ここにあるのではないか?
どんな楽天家でも3日は寝込んでしまいそうな『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)には、ラース・フォン・トリアーによるサディステイックな悲劇的効果が満載。
そこにはアメリカという超大国への告発というメッセージを受け取ることもできたが、「たかが映画一本でアメリカを変えることなんてできない」という彼自身の言葉からも推察できるように、映画は極めてシニカルでドラスティックだった。
しかし、『ミリオンダラー・ベイビー』は違う。ここにはウェットな手触りがある。なぜなら、我々はイーストウッドに責任を仮託できるからだ。ハリウッドの巨大な父性である彼は、70歳の齢を過ぎてからいよいよその印象を強めている。
- 原題/Million Dollar Baby
- 製作年/2005年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/133分
- 監督/クリント・イーストウッド
- 脚本/ポール・ハギス
- 原作/F・X・トゥール
- 製作/ポール・ハギス、トム・ローゼンバーグ、アルバート・S・ラディ、クリント・イーストウッド
- 製作総指揮/ロバート・ロレンツ、ゲイリー・ルチェシ
- 音楽/クリント・イーストウッド
- 撮影/トム・スターン
- 美術/ヘンリー・バムステッド
- 編集/ジョエル・コックス
- クリント・イーストウッド
- ヒラリー・スワンク
- モーガン・フリーマン
- アンソニー・マッキー
- ジェイ・バルチェル
- マイク・コルター
- ブライアン・F・オバーン
- マーゴ・マーティンデイル
- ネッド・アイゼンバーグ
- ブルース・マクヴィッティ
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