正義と悪が峻別できない世界で巻き起こる、やるせない“日常の断片”
いやー何でしょうか、このやるせなさ。ただただ憂鬱で、重苦しくて、やりきれない。観る者の気持ちを宙ぶらりんにさせてしまうこの感じって、もちろん今までのイーストウッドのフィルモグラフィーに通底している感覚。
しかし『ミスティック・リバー』(2003年)の特殊性は、今までイーストウッド自身が演じてきた屈強キャラをもってしても、「我々の前には運命という名の河が横たわっていて、その流れにはなんぴとたりとも抗えないのだ」というような、無常観にあるんではなかろうか。
ティム・ロビンス演じるデイヴは、少年時代に見知らぬ男二人に車で拉致され、性的虐待を受けたことがあるという設定。その拉致犯の指輪にはっきりと十字架が刻まれていることによって、我々は「神に仕える者=聖職者が少年を犯す」という、暗澹たる状況を知らされる。
かつて『ダーティハリー』(1971年)のハリー・キャラハン刑事は、「イエスは救い給う」というメッセージが刻まれたネオンサインのもと、神の庇護を受けて殺人鬼スコルピオンと対峙した。『ミスティック・リバー』では、神の庇護下にある聖職者が無垢なるものに牙をむくのだ。
この災厄の街に救いはない。札付きのワルから足を洗い、今では雑貨店を営むジミー(ショーン・ペン)、過去のトラウマから逃れることのできないデイヴ(ティム・ロビンス)、妻の行方不明に心を痛めている刑事のショーン(ケビン・ベーコン)による三者三様のドラマは、やがて最悪のシナリオを描いて帰着する。
イーストウッドがえぐり出すのは、正義と悪が共存する世界ではなく、正義もまた悪に転化される世界、いや、そもそも正義と悪が峻別できない世界なのである。
いよいよヤヌス・カミンスキーに接近してきた、トム・スターンによる陰影に富んだ映像が、この世の深淵を残酷に暴きだす。だが、この映画の無常観を保証しているのは、何よりもまず「ミステリー」というフォーマットを導入していることにある。
ジミーの娘が遺体となって発見されたことから、『ミスティック・リバー』は犯罪ドラマの色が濃くなっていく。例えば、「なぜ事件の通報者は、車内にいなかったはずの被害者の性別を女性だと言い当てることができたのか?」といったような「ミステリーの種」が、周到にバラまかれていく。
と・こ・ろ・が!ストーリーを膨らますはずの伏線と思われた「ミステリーの種」は最後まで機能することなく、事件は実にアッサリと、“たまたま”解決してしまう。
真犯人の動機は怨恨でも金銭でもなく、“たまたま”その場に被害者が居合わせたから(運が悪いことこの上なし!)。演繹的に事件が解決することを期待する観客を裏切ることによって、ラストのはかりしれない絶望感が、逆に鮮明化される仕掛けになっているのだ。
映画の終盤でジミーの妻が、「あなたはこの街の支配者。あなたのすることは全て正しいの」とささやくシーンは、愛娘への激烈な愛情ゆえに、デイヴを死に追いやった夫の蛮行を正当化しようとするものだが、時として愛情は暴力へと転化する。だから、この世界から暴力はなくならない。
善人も悪人もいないこの映画で示されるのは、彼岸にある悲劇ではなく、あなたのすぐ側にあるであろう“日常の断片”なのだ。
- 原題/Mystic River
- 製作年/2003年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/138分
- 監督/クリント・イーストウッド
- 製作/クリント・イーストウッド、ジュディ・ホイト、ロバート・ロレンツ
- 製作総指揮/ブルース・バーマン
- 原作/デニス・ルヘイン
- 脚本/ブライアン・ヘルゲランド
- 撮影/トム・スターン
- 美術/ヘンリー・バムステッド
- 編集/ジョエル・コックス
- 音楽/クリント・イーストウッド
- ショーン・ペン
- ティム・ロビンス
- ケビン・ベーコン
- ローレンス・フィッシュバーン
- マーシャ・ゲイ・ハーデン
- ローラ・リニー
- エミー・ロッサム
- ケビン・チャップマン
- トム・グイリー
- スペンサー・トリート・クラーク
- アダム・ネルソン
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