2017/9/4

『スーパーマン・リターンズ』(2006)徹底解説|9.11後のアメリカが呼び戻した“強く正しい夢”

【ネタバレ】『スーパーマン・リターンズ』(2006)
映画考察・解説・レビュー

6 OKAY
概要

映画『スーパーマン・リターンズ』(原題:Superman Returns/2006年)は、1978年のリチャード・ドナー版から約20年ぶりに復活したDCコミックの象徴的ヒーロー。ブライアン・シンガー監督が描くのは、9.11以降のアメリカに甦った「強く正しいアメリカ」の亡霊である。本レビューでは企画の迷走史から公開背景、ロイス・レーンやレックス・ルーサーのキャラクター造形、父性や宗教的メタファー、映像技術の逆説までを徹底考察し、現代社会におけるスーパーマン像の意義を掘り下げる。

目次

企画倒れの亡霊から蘇ったプロジェクト

『スーパーマン リターンズ』(2006年)という映画の背後には、「未完の死体」たちが膨大に積み上げられている。『スーパーマン』再始動企画は、実に10年以上にわたってハリウッドの深い闇を彷徨い続けていた。

もっとも有名なのは、1990年代後半に進められていたティム・バートン監督、ニコラス・ケイジ主演による『Superman Lives』だろう。ニコラス・ケイジが長髪をなびかせ、サイケデリックな光を放つコスチュームを身にまとったテスト映像は、いまやインターネット上で伝説の遺物となっている。

もしバートン版が実現していれば、我々は孤独なエイリアンの苦悩をゴシック・ホラー的な美学で描いた、前代未聞の怪作を目撃していたはずだ。

さらにその前後には、J・J・エイブラムスによる大幅な設定変更を加えた脚本『Superman: Flyby』や、ブレット・ラトナー、マックGといった監督たちが入れ替わり立ち替わり現れては、製作費だけをドロドロと食いつぶしていくという、まさに呪われたプロジェクトの様相を呈していた。

しかし2002年、サム・ライミ監督の『スパイダーマン』が全米を揺るがす興行的成功を収めると、DCコミックスを擁するワーナー・ブラザースの焦燥感は頂点に達する。

マーベルに席巻されるマーケットを取り戻すには、最大最強のアイコン、すなわちスーパーマンの帰還が不可欠だった。そこで白羽の矢が立ったのが、『X-MEN』シリーズを成功させ、アメコミ映画にマイノリティの苦悩という文学的な層を持ち込んだ、ブライアン・シンガーである。

シンガーは本作を製作するにあたり、それまでの迷走したリブート案をすべてゴミ箱へ捨て、「1978年のリチャード・ドナー版の正当な続編を作る」という、ある種のアナクロニズムに近い決断を下した。

これは極めてハイリスクな賭けだった。CG技術が飛躍的に進歩し、『バットマン ビギンズ』のように「ダークでリアルな再構築」が主流になりつつあった時代に、あえて古き良きドナー版の空気感、あのジョン・ウィリアムズのテーマ曲、さらには故マーロン・ブランドの映像までもをデジタルで蘇生させてまで、シンガーは「神話の継続」にこだわったのである。結果として、本作は「現代の観客に向けた新作」である以上に、「1970年代のアメリカへの郷愁」を全身に纏った異形の作品として、亡霊のようにスクリーンに蘇ったのだ。

9.11後の冷え切った空の下で

僕は1978年に公開されたリチャード・ドナー版『スーパーマン』を心から愛している。クリストファー・リーヴが体現した、ユーモアと慈愛に満ちたあの英雄像こそが、僕にとっての「正義」の原風景だ。だが、2006年の世界は、ドナーが映画を撮った時代とはあまりに無惨に変わっていた。

決定的な断絶は、2001年の9.11同時多発テロである。あの日以来、アメリカという国家は「無垢な正義の象徴」であることを放棄せざるを得なくなった。世界は複雑化し、かつての「強く正しいアメリカ」というイメージは、一部の人間にとっては独善的な暴力の象徴へと変質した。そんな「冷え切った空」の下に、タイツを履いた完璧な超人が再び舞い降りることに、一体どれほどのリアリティがあるのか? ブライアン・シンガーが直面した最大の障壁は、まさにこの「神話の有効期限切れ」という残酷な現実だった。

劇中、ロイス・レーン(ケイト・ボスワース)が執筆した痛烈な記事のタイトル──「なぜ世界はスーパーマンを必要としないのか?」。この一文は、現実世界のアメリカが抱えていた自己不信のメタファーに他ならない。スーパーマン(ブランドン・ラウス)は、かつての恋人であるロイスが別の男と家庭を築き、自分の記憶を塗り替えようとしている姿を、神のような視点で見つめるしかない。この「居場所のなさ」こそが、シンガー版が提示した最も真摯なリアリズムだった。

1978年版のジーン・ハックマン演じるレックス・ルーサーは、世界征服を企む悪党でありながら、どこか人間味のある滑稽さを持ち合わせていた。しかし、ケヴィン・スペーシーが演じたルーサーはどうだ? 彼はユーモアを徹底して排し、ただただ冷酷で、不気味なほどの虚無を抱えている。これは悪役の造形が変わったのではない。世界が悪を「笑えないもの」として定義し直してしまったことの現れなのだ。シンガーは、ドナー版のルックや音楽を忠実に守りながらも、その中身を「救世主を待ち望みながら、同時に彼を拒絶する」という、現代アメリカの引き裂かれた精神で満たしてしまった。そのアンバランスさこそが、本作を単なる懐古趣味に終わらせない、ザラついた手触りを与えているのである。

宗教性と父性のモチーフ

ブライアン・シンガーは、スーパーマンというキャラクターを徹底して「キリスト」のメタファーとして描き抜こうとした。宇宙空間で両腕を広げ、十字架に磔にされたようなポーズで静止し、地球上のあらゆる悲鳴に耳を傾けるその姿。彼は民衆のために命を懸けて墜落し、病院のベッドで「死」を迎えようとする。そして、信仰の力(あるいは太陽の光)によって復活を遂げる。このあからさまなまでの宗教的イメージの横溢は、21世紀のエンターテインメントとしてはあまりに過剰で、ともすれば観客を辟易させるほどだ。

しかし、そこにシンガーは「父性」という、もう一つの太い線を書き加えた。スーパーマンに息子(ジェイソン)がいた、というこの設定変更こそが、本作の評価を真っ二つに分ける最大の論争点である。かつては神として天空から人々を見下ろしていた男が、地上の女性との間に血を分けた子を持つ。これは神話の側からすれば「堕落」であり、ドラマの側からすれば「人間化」である。スーパーマンが眠る息子の枕元で、「父から子へ」の言葉を、かつて実父ジョー=エル(マーロン・ブランド)が自分に遺した言葉と同じように繰り返すシーン。あそこにあるのは、英雄の凱旋ではなく、自分と同じ「孤独なマイノリティ」として生きるであろう息子への、祈りに近い共感だ。

だが、この「神話の更新」は、当時の観客には十分に届かなかった。人々が求めていたのは、強大な敵と拳で語り合う爽快なアクションであり、自らの不倫的な愛の結果(ジェイソンは、ロイスがスーパーマンの正体を知らない時期の子であるという、極めて複雑な不義の産物として描かれている)に悩むヒーローではなかったのだ。本作のスーパーマンは、一度も敵を殴らない。彼はただ、自らの重力に抗って、巨大なクリプトナイトの島を宇宙へ持ち上げるという「苦行」を遂行するだけだ。

結論から言えば、『スーパーマン リターンズ』は、9.11後のアメリカが喉から手が出るほど欲しがった「救済」を、最も残酷な形で提示した作品である。「ヒーローは帰ってきたが、彼はもう、かつてのようには君たちを救えない」という宣告。父性は継承され、神話は形を変えて生き残るが、そこにはもはや純粋な勝利の凱歌は鳴り響かない。ブライアン・シンガーが作り上げたのは、あまりにも美しく、あまりにも孤独な、アメリカン・ドリームの葬送行進曲だった。この「神話の失効」という真実に正面から向き合ったからこそ、本作は公開から20年近くが経った今でも、我々の心に暗い影を落とし続けているのである。

ブライアン・シンガー 監督作品レビュー