『スパイダーマン』(2002年/サム・ライミ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『スパイダーマン』(原題:Spider-Man/2002年)は、サム・ライミ監督によるマーベル・コミックス実写映画化作品。冴えない高校生ピーター・パーカーが、遺伝子操作クモに噛まれたことをきっかけに超人的な力を得て、悪と戦うヒーローへと成長する。学園生活の葛藤や恋愛、そして正義との狭間で揺れる青春が描かれる。
青春群像劇としてのスパイダーマン
独自の世界観を持つ鬼才、サム・ライミ。ホラー映画史に燦然と輝く超低予算カルト作『死霊のはらわた』(1981年)で鮮烈なデビューを飾り、その後も『ダークマン』(1990年)や『キャプテン・スーパーマーケット』(1992年)で、ホラー+スラップスティック・コメディの怪作を世に送り出してきた。
アメコミ的なポップな感性と、B級映画特有の悪ノリを、恐るべきスピード感とアイデア勝負の演出でまとめ上げてしまう、圧倒的スキル。これこそがライミの十八番である。
そんな彼の元に舞い込んだのが、マーベル・コミックスの看板ヒーロー「スパイダーマン」の実写化という、超ビッグ・プロジェクト。ハリウッドのスタジオ・システムが天文学的な資金を投下し、世界的メガヒットを目論む一大企画である。
血みどろB級テイストを愛するこの男が、この巨大IPを一体どう料理するのか?ライミが導きだした答えは、我々の予想を裏切るものだった。彼は超大作アクションではなく、冴えない男の子の痛々しい成長物語として描くことを選択したのである!
主人公は、スクールカーストの最底辺を這う冴えない高校生、ピーター・パーカー。遺伝子操作されたクモに噛まれたことで超人的な力を授かり、やがて街を守るヒーローへと成長していく。
展開そのものは王道中の王道だが、ライミはここにアメリカ的学園青春ドラマの残酷なリアルを投入する。いじめられっ子として疎外されてきたピーターが、「選ばれし者」へと変貌する二重構造。
ビデオ屋のジャンル分けで言うならば、本作はアクションの棚ではなく、青春ドラマの棚に置いた方がしっくりくるほどの甘酸っぱさに満ちている。
その青春映画的テイストは、絶妙なキャスティングによってさらに強化されている。主人公ピーターを演じたトビー・マグワイアは、いかにも冴えない、クラスの端っこでモジモジしている童貞感を全開。
対してヒロインのMJ役キルスティン・ダンストは、『チアーズ!』(2000年)で見せた陽気で少し小生意気なチアリーダー的カマトトぶりをそのまま持ち込み、学園コメディ的な軽快さを画面に漂わせる。
イケメン(あるいは金持ち)しか相手にしないという彼女の振る舞いは、スクールライフのリアリティを見事に体現。スクリーンの裏側で二人が実際に交際し、その後別れてしまったというゴシップすらも、青春群像劇としての生々しいテクスチャを補強するエピソードとなっているのだ。
突進カメラの魔法換
摩天楼を縦横無尽に飛び回るスパイダーマン。カメラがニューヨークのビルの谷間を猛スピードで疾走し、観客の視点がピーター・パーカーとともに文字通り「宙吊り」になる瞬間の極限の爽快感。これこそがサム・ライミ演出の真骨頂である。
2000年代初頭のハリウッドは、まさにデジタル革命の渦中にあった。『マトリックス』(1999年)のバレットタイムや、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(1999年)のフルCGキャラクター(ジャー・ジャー・ビンクス)が象徴するように、デジタル映像技術が一気に拡張。
本作の摩天楼アクションもその延長線上にあるものの、ライミが非凡だったのは、「完全なCGの身体」と「生身の俳優の身体」の境界線を徹底的に探求し、そのブレンドの最適解を見つけ出した点にある。
手首からウェブ(糸)を放つ際の筋肉の躍動、ワイヤーワークによる重力の負荷。CGに実写スタントの身体感覚が絶妙に組み合わさることで、観客は違和感なく都市空間を移動する生身の肉体として、画面の躍動を受け止めることができた。
さらには、ライミのトレードマークともいえる突進カメラ(シェイキー・カム)の天才的転用。被写体に向かって猛スピードで突き進む、疾走感溢れるテクニックだ。
元々は、『死霊のはらわた』で「森の中を這いずり回る悪霊の視点」を低予算で描くために開発されたもの。つまり本来は、観客に「恐怖の主観」を強制するためのホラー技法だったのである。
ライミは、このB級ホラーの手法を超ポジティブな方向へと大転換させてみせる。摩天楼の谷間を落下し、ウェブを放って振り子のようにスイングする視点ショットは、恐怖ではなく、未体験の爽快感へと変貌した。
ライミの特異な作家性は、巨大なスタジオのブロックバスター・システムに吸収されることなく、むしろ自身のスタイルをアップデートすることで、メジャー大作のど真ん中に刻み込まれた。
映画ファンとして、これは胸アツである。
9.11後の傷ついた摩天楼
『スパイダーマン』は、2001年の同時多発テロにより公開が延期され、当初の予告編に収録されていた「ツインタワーの間に張られた巨大なクモの巣にヘリコプターが捕まる」という映像も差し替えられる事態となった。
だが奇妙なことに、この作品が放つ底抜けにポジティブなエネルギーは、9.11以後の傷ついた観客、とりわけニューヨーカーにとって、計り知れないほど大きな癒しとなった。
現実のテロの記憶がまだ生々しい都市の高層ビル群を舞台に、名もなき市民を守るためにヒーローが躍動する。グリーン・ゴブリンに襲撃されるスパイダーマンを助けるため、ニューヨークの市民たちが「俺たちの街のヒーローに手を出すな!」と一斉にゴミを投げつけるシーンは、崩壊の記憶と正面から対峙しながらも、人間の善意と連帯で上書きするようなカタルシスが、確かにあった。
この映画の魅力を底支えしているもう一つの要素が、ウィレム・デフォー演じる悪役グリーン・ゴブリン。ティム・バートン監督の『バットマン』(1989年)に登場するジョーカーのような、カリスマ性には欠けるかもしれない。
だが、彼の面白さは「世界征服」といった抽象的な目的ではなく、その行動原理が極めて人間臭く、スケールが小さいことにある。ノーマン・オズボーンの目的は、自らが心血を注いだ会社から自分を追い出した取締役会の連中への、個人的で陰湿な復讐なのだから。
さらに彼は、実の息子であるハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)よりも、優秀なピーターに対して強烈な執着(疑似父子関係)を抱き、あろうことか「共にこの街を支配しよう」とパートナーシップを持ちかける。
この、エゴイズムと承認欲求にまみれた歪んだ父親像こそが、ピーターの「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という正義のテーマと強烈なコントラストとなる。
特撮怪人のようなチープなスーツを着ていながら、デフォーの素顔の怪演(とりわけ鏡の前での二重人格の芝居は圧巻!)によって、グリーン・ゴブリンは悲劇的で哀愁漂う見事なヴィランとして成立している。
『スパイダーマン』の公開は、アメコミ映画史における絶対的転換点となった。『ブレイド』(1998年)がジャンル復権の端緒を開き、『X-MEN』(2000年)が群像劇の可能性を提示したあと、爽快青春群像劇としてアメコミ映画の新しい地平を切り拓いたのである。
ここからマーベル映画の快進撃が始まり、のちのMCUへと繋がっていく。ピーター・パーカーという少年の葛藤と、ライミの作家性が奇跡的なバランスで融合したこの第一作は、何度見返しても色褪せることのない、青春アクション映画の金字塔である。
- 監督/サム・ライミ
- 脚本/デヴィッド・コープ
- 製作/ローラ・ジスキン、イアン・ブライス、アヴィ・アラド
- 製作総指揮/スタン・リー
- 制作会社/コロンビア ピクチャーズ、マーベル・エンターテイメント
- 原作/スタン・リー、スティーヴ・ディッコ
- 撮影/ドン・バージェス
- 音楽/ダニー・エルフマン
- 編集/ボブ・ムラウスキー、アーサー・コバーン
- 美術/ニール・スピサック
- 衣装/ジェームズ・アチソン
- SFX/ジョン・ダイクストラ
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