『まぼろしの市街戦』(1966年/フィリップ・ド・ブロカ)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『まぼろしの市街戦』(原題:King of Hearts/1966年)は、フィリップ・ド・ブロカ監督がアラン・ベイツを主演に迎え、第一次世界大戦下のフランスの田舎町を舞台に描いた寓話的ファンタジー。ドイツ軍が仕掛けた時限爆弾の解除を命じられた通信兵プランビックと、精神病院から解放された個性豊かな患者たちが織りなす「狂気の中の純粋な祝祭」を活写する。本国フランスでの興行的失敗を経て、ベトナム戦争下のアメリカでカウンターカルチャーのバイブルとして再発見された経緯を持ち、ジョルジュ・ドルリューの名曲と共に、正気と狂気の境界線を鮮烈に問い直す傑作である。
分類不能のファンタジック・カーニバル
フィリップ・ド・ブロカ監督の『まぼろしの市街戦(1966年)は、彼のフィルモグラフィのみならず、20世紀の映画史においても極めて特異な結晶として位置づけられる。
ジャン=ポール・ベルモンド主演の『リオの男』(1964年)に象徴されるアドベンチャー的軽やかさとは異なり、本作で彼が描くのは、第一次世界大戦末期のフランスの田舎町という暴力の磁場だ。
しかしド・ブロカは、戦争の悲惨さを泥と血で正面から告発するのではなく、戦争という不条理のど真ん中に狂人たちのユートピアを立ち上げてしまうという、奇妙かつ極めて高度な反転構造を採用した。
1966年のフランス本国公開時、この映画は興行的に惨敗し、早々に劇場から姿を消した。戦争と精神障害というデリケートな主題をファンタジーとして軽やかに扱ったことが、当時のフランスの批評家や観客には受け入れられなかったのだ。
しかし、この映画は海を渡り、ベトナム戦争の泥沼化によって暗い影を背負っていたアメリカの若者たちに発見される。マサチューセッツ州ケンブリッジのセントラル・スクエア・シネマでは、なんと1968年から5年間に及ぶ超ロングラン記録を打ち立てた。
ロサンゼルス・タイムズ紙が「戦争が非現実にみえるユートピア。まさにヒッピー天国だ」と評した通り、本作が描いた非現実は、単なる現実逃避の産物ではなく、国家の暴力という巨大な虚無に対抗するための、カウンターカルチャーのバイブルとして機能したのだ。
主人公であるイギリス軍の通信兵プランビックを演じるアラン・ベイツの、あの飄々とした佇まい!彼がドイツ軍の追手から逃れ、偶然迷い込んだ精神病院で“ハートのキング”に祭り上げられるプロセスは、論理を越えた不条理演劇のようでありながら、徹底した理性によって編成された寓話として立ち上がる。
ド・ブロカの作品でありながら、その受容の厚みがベトナム反戦運動のうねりとダイレクトに結びつく点にこそ、この映画の真のユニークさがあるのだ。
祝祭の劇場とジョルジュ・ドルリューのワルツ
ド・ブロカの冷徹な眼差しが見つめるのは、戦争という極限状況が人間の尊厳を根こそぎ奪い取っていく、国家の構造そのものだ。しかし本作は、それを声高に叫ぶのではなく、人間がその外側に祝祭を作り上げることで、暴力の論理に侵食されない方法を提示する。
退却した町民たちに代わって、精神病院から解放された患者たちが街へ繰り出し、自らの内部に潜むオブセッションを貴族、将軍、娼婦、軽業師といった衣装へと転写していく。
将軍(ピエール・ブラッスール)は軍服を着込み、娼館のマダム(ミシュリーヌ・プレール)は艶やかに振る舞い、コクリコ(ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド)は無垢な愛をプランビックに捧げる。
彼らが現実の重力から解き放たれ、生の可能性を爆発させるその瞬間、彼らの行動は狂気の表出ではなく、戦争に飲み込まれないために必要なもう一つの非日常の自覚的構築へと昇華される。
彼らの祝祭空間は、イギリス軍もドイツ軍も立ち入れない“戦争の外側(サンクチュアリ)”として機能し、そこで踊り続けられるステップは、戦争の論理を停止させるための平和的なサボタージュなのだ。
この極彩色のユートピアに、決定的な品格と哀愁を与えているのが、名匠ジョルジュ・ドルリューによる音楽。フランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダールの作品を支えてきた彼の紡ぐワルツは、まるで古き良きベル・エポックの幻影のように、美しく、軽やかで、そして胸が締め付けられるほど哀しい。
やがて映画の終盤、ついに街でイギリス軍とドイツ軍が鉢合わせとなり、広場で凄惨な白兵戦が繰り広げられる。互いに銃を撃ち合い、全滅していく両軍の兵士たち。
その地獄絵図を、バルコニーからオペラでも鑑賞するかのように眺めていた患者の少女は、拍手をしながらポツリと「変な人たちね」と呟く。
この一言は、国家の大義という名の下に殺し合う「正気」の兵士たちに対する、きわめて冷徹で決定的な批評として響き渡る。
狂っているのは、彼らか、それとも我々か? 暴力の只中にいながら、少女は“戦争の外側”から人類の愚行を見下ろしている。この瞬間、映画は観客に向かって巨大な鏡を差し出し、暴力を支える「正気という名の狂気」の根幹を問いただすのだ。
虚構の創造としてのユートピア
映画の後半、患者たちが街全体を演劇空間へと変えていくプロセスは、本作における最も重要な転換点だ。彼らは現実を拒絶するのではなく、現実を一旦演劇の衣装へと組み替えることで、暴力の外側に立つ“自分たちだけの世界”を生成する。
虚構(フィクション)を創ることは狂気ではなく、むしろ残酷な世界で正気を持続させるために必要な生存戦略として描かれる。これが本作の根幹だ。
街角の光の反射、群衆の動線、娼館のけばけばしいベルベットの質感、カメラの緩やかな旋回。これら全てが、現実の反転として機能し、戦争の空気を遠ざける。
ド・ブロカのカメラは、祝祭の高揚に酔いしれるのではなく、虚構が現実へ侵食する瞬間を慎重に観察する。その態度は、後年ジョン・レノンとオノ・ヨーコが行った「ベッド・イン(平和のためのパフォーマンス)」と構造的に深く響き合う。身体や空間を、武器ではなくアートへと変える、その強烈な政治性が、本作の祝祭空間にも等しく流れているのだ。
ヒトラー風の髭を蓄えたドイツ軍兵士アドルフを演じているのが、他ならぬフィリップ・ド・ブロカ監督本人であることは、この映画の構造を象徴する批評的な仕掛けだ。
監督自身が20世紀最大の暴力のパロディを演じることで、映画の虚構性をあらかじめ観客へ提示し、現実と虚構の境界線を意図的に攪乱しているのである。
- 監督/フィリップ・ド・ブロカ
- 脚本/ダニエル・ブーランジェ、フィリップ・ド・ブロカ
- 製作/フィリップ・ド・ブロカ
- 撮影/ピエール・ロム
- 音楽/ジョルジュ・ドルリュー
- 美術/フランソワ・ド・ラモット
- まぼろしの市街戦(1966年/フランス)
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