辛抱堪らず『スター・ウォーズ コンプリート・サーガ』や『鈴木清順 浪漫三部作』を大人買いしてしまった僕だったが、すでにDVDで所有しているにも関わらず、どうしてもHD画質で鑑賞してみたかったのが、フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』であった。
『気狂いピエロ』(1967年)でサミュエル・フラーが「映画とは戦争だ」と発言していたが、『地獄の黙示録』はそれをダイレクトにアウトプットした作品と言える。
ベトナム戦争を扱っているという表層的な主題ではなく、コッポラという一映画作家の格闘が生々しく刻印されたフィルム、という語義として。
この映画は、とにかく混乱している。っていうか、壊れている。
シネマっちゅーものは、映画監督が脳内キャンバスに描いたイメージをどこまでフィルムに再現できるかにある訳だが、相次ぐ撮影困難、財政的圧迫、外部からの干渉という“戦争”を経て完成した『地獄の黙示録』は、コッポラが当初描いた青写真よりも、一万光年くらいかけ離れたものになっていたに違いない。
「たいていの戦争映画は反戦映画だ。しかし私は、この映画はそれ以上のもの、反“嘘”映画であると信じている」
とコッポラ自身、何か開き直ったかのようなコメントをしているが、しかしながら『地獄の黙示録』は映画として完成されていない故にヴィヴィッドなのであり、アウト・オブ・コントロール故に「偉大なる失敗作」に成り得たのだ(実際に興行の面でも成功しなかったけど)。
この作品には、コッポラの狂気がそのままフィルムに焼き付いている。映画という規定のフォームを破壊し尽くす混沌としたカオスが、実際のベトナムとクロスオーヴァーし、追体験させるという、映画というシステムに滞留しない外力を放つんである。
アンダー・コントロールの必然的結果ゆえか、アウト・オブ・コントロールの偶然的結果ゆえかは存じ上げぬが、『地獄の黙示録』は純然たるアメリカ映画にも関わらず、どこかヨーロッパ的な匂いもたちこめている。
例えば、サーフィン大好きのキルゴア中佐が、ワーグナーの『ワルキューレ騎行』をガンガンに鳴らしながら、軍事ヘリで村を一掃するシーンなんぞ超アメリカ的。戦争をロックンロールやサーカスと同義で捉えてしまうアッパーな視座は、実にアメリカ的なアメリカ批判と言える。
しかし、マーティン・シーン一行がカンボジア領域に入るあたりになると、物語は次第に内省的な展開を見せ、アメリカ映画らしからぬ異質な輝きを放ち始める。
夜の闇から一匹の虎が飛び出す幻想的ショットなんぞ、名匠ヴィットリオ・ストラーロによる流麗な撮影技術も相まって、ヨーロッパ映画的エッセンスを感じまくり!
終盤になると、ベトナムとの戦争にアメリカという超大国の欺瞞を感じ、自らカンボジアの奥地で牙城を築き王国を形成するカーツ大佐と、マーティン・シーンによるタイマン・トークが映画を牽引。
それはディスカッション・ドラマとしてベトナム戦争の本質と虚飾を暴くのみならず、エソテリズムな側面をも醸し出す、極めて非アメリカ的な展開と言えるだろう。
This is the end, Beautiful friend
This is the end, My only friend
The end of our elaborate plans
The end of everything that stands
The end…
「これで終わりだ」という曲で幕を開ける『地獄の黙示録』は、コッポラから突き付けられた、スペキュレイティヴな黙示録である。
この作品以降精も根も金も尽き果て、駄作ばかりを発表し続けるようになってしまったコッポラ自身にとっても、黙示録になってしまったようだが。
- 原題/Apocalypse Now
- 製作年/1979年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/153分
- 監督/フランシス・フォード・コッポラ
- 製作/フランシス・フォード・コッポラ
- 脚本/フランシス・フォード・コッポラ、ジョン・ミリアス
- 音楽/カーマイン・コッポラ
- 美術/ディーン・タブラリス
- 編集/リチャード・マークス、ウォルター・マーチ
- 撮影/ヴィットリオ・ストラーロ
- マーロン・ブランド
- マーティン・シーン
- ロバート・デュヴァル
- フレデリック・フォレスト
- デニス・ホッパー
- サム・ボトムズ
- G・D・スプラドリン
- ハリソン・フォード
- アルバート・ホール
- スコット・グレン
- ジャック・ティボー
- コリーン・キャンプ
- ローレンス・フィッシュバーン
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