2017/10/13

『トラフィック』(2000)徹底解説|終わらない麻薬戦争、3つの視点が交錯する群像劇

【ネタバレ】『トラフィック』(2000)
映画考察・解説・レビュー

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『トラフィック』(原題:Traffic/2000年)は、アメリカとメキシコを股にかけた麻薬戦争を、スティーヴン・ソダーバーグが多面的に描く群像劇。メキシコでは州警察官ハビエルが汚職に抗い、ワシントンでは麻薬取締局長官ウェイクフィールドが自らの娘の薬物依存に苦悩する。一方、サンディエゴでは逮捕された密売人の妻が新たな取引網を築こうとする。三つの物語は麻薬という一本の糸によって交錯し、誰もが抗いきれない現実へと飲み込まれていく。

変幻するソダーバーグという監督像

スティーヴン・ソダーバーグほど、その作家性と輪郭を掴みきれない映画監督はいない。26歳の若さで『セックスと嘘とビデオテープ』(1989年)を発表し、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを獲得した当時、彼は間違いなくインディーズ映画界の寵児であった。

しかし、その後の歩みは一筋縄ではいかない。自身の才能を一つの型に押し込めることを拒むかのように、『KAFKA/迷宮の悪夢』(1991年)や『蒼い記憶』(1995年)といった実験的で難解な作品を連発。商業的な成功からあえて距離を置くその姿勢は、彼を過去の人にしかけた時期すらあった。

だが、この約10年に及ぶ雌伏の期間こそが、彼の職人的なスキルを極限まで研ぎ澄ませることになる。純然たるエンターテインメント作品『アウト・オブ・サイト』(1998年)で華麗な復活を遂げると、続く『トラフィック』(2000年)でその知性と技巧が爆発

本作は、インディーズ時代から培ってきた冷徹な観察眼と、メジャー大作をハンドリングする巨匠としての腕力が奇妙に共存した、いわば「ソダーバーグという才能の完全体」を見せつけた一作だ。

『トラフィック』は、麻薬という底なしのテーマを軸に、3つの物語が国境を越えて並走する重層的な群像劇になっている。

①メキシコ編:汚職と暴力が蔓延する警察組織の中で、警官ハビエル(ベニチオ・デル・トロ)が孤独な戦いを続ける。

②ワシントンD.C.編:麻薬根絶を掲げる新長官(マイケル・ダグラス)が、自身の娘の薬物依存という足元の家庭崩壊に直面する。

③サンディエゴ編:麻薬王の夫を逮捕された上流階級の妻(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)が、今の生活を守るために非情な裏社会のトップへと変貌していく。

ソダーバーグは、これら3つの異なる世界を色彩のレイヤーによって完璧に可視化してみせた。メキシコ編では、砂埃と熱気を表現するために低感度フィルムを使用し、黄色のタングステン・フィルターをかけて粒子の荒れたザラつく質感を生み出している。

対照的にワシントンD.C.編では、官僚機構の冷徹さと知的な冷たさを象徴するブルーのフィルターを採用。そしてサンディエゴ編では、眩いほどに露出を上げたオーバー気味のホワイトで、富裕層の虚飾を照らし出した。

特筆すべきは、ソダーバーグがこの視覚的デザインを完遂するために「ピーター・アンドリュース」という別名義を用い、自らカメラを担いで現場を駆け回ったこと。

彼は映画を情緒的に語るのではなく、高度に整理された情報のデザインとして扱った。映像を色で階層化し、観客の脳へダイレクトに「現在地」を刻印するその手法は、まさにポストモダン的な編集術の極致といえる。

ポストモダン的職人監督の到達点と限界

『トラフィック』の核心にあるのは、麻薬戦争という解決不能な構造に組み込まれた、国家と個人の倫理的なジレンマである。

マイケル・ダグラス演じる長官は、権力の頂点に立ちながら、自分の娘がクラックに溺れ、夜の街で体を売る姿を直視せざるを得なくなる。ホワイトハウスが掲げる壮大な正義よりも、一本の注射器がもたらす家庭崩壊の方が、圧倒的にリアルな質量を持って描かれているのだ。正義は常に遠くで語られる政治言語であり、痛みは常に目の前の肉体に宿る。

一方でベニチオ・デル・トロが演じるハビエルは、腐敗しきったメキシコの警察組織の中で、人間としてギリギリの筋を通すことを試みる。映画のラスト、彼が捜査協力の見返りとして要求したサッカー場の夜間照明。それは麻薬戦争という深い闇に対する、皮肉なほどにささやかで、しかしあまりにも尊い“光”だ。

ソダーバーグは、救済がいかに空洞化していくかを描きながらも、その果てにあるハビエルの徒労にだけは静かな祈りを捧げている。デル・トロの疲れ果てた男の深い眼差しが、この知的に冷え切った映画に唯一の熱狂を与えているのだ。

ソダーバーグは、自らカメラを回し、自ら編集し、脚本のロジックをミリ単位で制御する「全能の職人」だ。本作においても、複雑なマルチプロットを一切の停滞なく統御し、観客を2時間半に及ぶ長尺に惹きつけ続けるバランス感覚は驚異的という他ない。

しかし、その完璧なコントロールこそが、ソダーバーグ作品に共通する万能の空洞を生み出している。

見えてこないソダーバーグの実像

彼は『オーシャンズ11』(2001年)でスター映画の娯楽性を謳歌し、『ソラリス』(2002年)では内省的なSFの深淵を覗き込んだ。あらゆるジャンル、あらゆるスタイルを自由自在に着脱できる器用さゆえに、彼の作品からは皮肉にも“作家の魂の震え”が遠のいていく。映像は常に的確に意味を運び、構成は非の打ち所がない。だが、物語の背後にいるはずの「ソダーバーグという人間の実像」は見えてこないのだ。

『トラフィック』は、世界の複雑さを解体し、再構築してみせた知的な最高到達点である。しかし、すべてが理解され、構造化され、最終的に整理されてしまうことで、現実が本来持っている「どうしようもない不可知性」は失われてしまった。

観客が映画に求めるのは、整理された情報だけではなく、時として自分を打ちのめすような触覚的な衝撃──すなわち、生の不安定な揺らぎである。だが、ソダーバーグの映像はあまりにも均整が取れすぎている。

万能型職人の宿命とは、すべてを完璧に操るがゆえに、自らの核心を「透明なシステム」の中に消失させてしまうことにある。本作はその逃れられない空洞を、最も美しく、最もスリリングに映し出した、ソダーバーグという冷徹な天才の「勝利の記録」なのである。

FILMOGRAPHY