希代の夢想家テリー・ギリアムが描く、精神の砂漠化が進行する現代社会への痛烈な異議申し立て
体内器官のようにのたうつフレックス・ダクト。しょっちゅう配線を繋ぎ直さないと受信できない電話。『未来世紀ブラジル』(1985年)で描かれる全体主義が蔓延した管理社会を、テリー・ギリアムは意外なほどにローテクな意匠で表現してみせた。
だからこそ、タイプライターの上にハエが落ちた拍子に、Tuttle(タトル)という容疑者の名前がButtle(バトル)に変わってしまうとか、ペーパーレスとは程遠い書類第一主義のために仕事が円滑に運ばないというような、厚生省の年金問題にも匹敵するお役所仕事のダメさ加減が浮き彫りになるんである。
そして何よりも、前近代的なローテク・ワールドは観る者に強烈な視覚イメージを付与する。同じく官僚主義的システムの恐怖を描いた、ジョージ・オーウェルの『1984年』(1949年)をモチーフにしながらも、テリー・ギリアムはよりキッチュに、よりユーモラスに、よりダークにビジュアライズ。
超広角レンズで歪められた近未来世界にすることで、世界観を己のフィールドに引き寄せたのである(ギリアムは、この作品をフェディリコ・フェリーニへのオマージュとも語っている)。
画面が歪められているんだから、社会も歪んでいるし、人間も歪んでいるし、ココロも歪んでいる。『未来世紀ブラジル』に登場する人物は、皆一様にパラノイティックだ。主人公の情報省記録局局員サム(ジョナサン・プライス)は、狂った世界で正気を保つために、空想の世界へ心をめぐらせる。
ギリシア神話に登場するイカロスのように白い羽を付けた騎士(ナイト)としての自分、さらわれし美しき姫君。だが夢で見た姫君とクリソツな女性を見つけたことで、リアルとイマジンの境界線は溶解し、彼自身もパラノイアと化していく。
この映画では頻繁にテロによる爆発シーンが挿入されるが、実行犯の姿は決して映し出されない。これは憶測だが、この爆発すらもサムの妄想の産物だったんではないか。
テロリストの目的は、秩序を破壊すること。そして秩序の破壊はサムが深層心理で願っていたことだ。そう考えると、彼にとってのヒーローであるタトル(ロバート・デ・ニーロ)すら、想像上の人物ではなかったか、という疑念が深まってくる。
つまりそれって、巨大建造物への破壊願望も含め、完全にデヴィッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』(1999年)的モチーフ。
エドワード・ノートンは多重人格化することによって(他人に責任を仮託することによって)個人テロを発動させたが、『未来世紀ブラジル』のサムは脳内世界で孤独なテロ活動を続けるのみ。
この映画が9.11以降に撮られていたならば、おそらくサムは現実世界でテロリズムに従事したんではないか。テーマ曲『ブラジル』の軽快なサンバのリズムに乗せて。
心弾む6月を過ごし 琥珀色の月の下
二人でいつかきっと、と囁いたブラジル
僕たちはここで出会ってキスをした
でもそれは一晩のこと
朝が来ると 君は何マイルも離れて
僕に言いたいことが山ほどいっぱい
今、空は暮れなずみ 二人の愛のときめきが蘇る
確かなことは一つだけ
僕は戻るよ、思い出のブラジルに…
甘ったるい歌詞とメロディーで1939年のヒットソングとなった『ブラジル』は、しかしながらこの映画では現実の悪夢を浮き彫りにさせるアイロニーとして作用する。この手法は、後年『12モンキーズ』(1995年)でルイ・アームストロングが歌う『What a wonderful world』でも使われた。
希代の夢想家テリー・ギリアムは、同種であるはずの夢見がちな作中人物に、いつだってビター・スウィートな結末を用意する。それは同類嫌悪ではなく、精神の砂漠化が進行する現代社会への痛烈な異議申し立てなのだ。
- 原題/Brazil
- 製作年/1985年
- 製作国/イギリス、アメリカ
- 上映時間/142分
- 監督/テリー・ギリアム
- 製作/アーノン・ミルチャン
- 脚本/テリー・ギリアム、トム・ストッパード、チャールズ・マッケオン
- 撮影/ロジャー・プラット
- 編集/ジュリアン・ドイル
- 音楽/マイケル・ケイメン
- 美術/ノーマン・ガーウッド
- 衣裳/ジェームズ・アシュソン
- プロダクションデザイン/ノーマン・ガーウッド
- ジョナサン・プライス
- キム・グライスト
- ロバート・デ・ニーロ
- イアン・ホルム
- キャサリン・ヘルモンド
- ボブ・ホスキンス
- マイケル・パリン
- イアン・リチャードソン
- ピーター・ヴォーン
- ジム・ブロードベント
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