『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年/ポール・トーマス・アンダーソン)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(原題:There Will Be Blood/2007年)は、ポール・トーマス・アンダーソン監督とダニエル・デイ=ルイスがタッグを組んだ21世紀映画の金字塔。石油成金ダニエル・プレインビューの半生を通して、資本主義の狂気と宗教の虚飾を描き出す本作は、スタンリー・キューブリックを想起させる冷徹な映像美と、ジョニー・グリーンウッドによる不協和なスコアで唯一無二の世界を構築した。本レビューではネタバレを含めてストーリーを解説し、資本主義の寓話としての本作を考察する。
PTAとロバート・アルトマンの師弟関係
ポール・トーマス・アンダーソン、略してPTA。
弱冠26歳にしてデビュー作『ハードエイト』(1996年)を世に送り出し、ポルノ業界の栄枯盛衰を描いた『ブギー・ナイツ』(1997年)、カエルの雨が降り注ぐ群像劇『マグノリア』(1999年)、オフビートなラブストーリー『パンチドランク・ラブ』(2002年)と、ポール・トーマス・アンダーソン(以下、PTA)は一作ごとに映画の文法を破壊し、刷新し続けてきた。
群像劇と長回しを多用するそのスタイルは、ポスト・ロバート・アルトマンと呼ぶにふさわしい。事実、PTAは公然とアルトマンへの心酔を語っており、特に『マグノリア』は、アルトマンの傑作『ショート・カッツ』(1993年)に対する彼なりの返答でもあった。
アルトマンが確立したオーバーラッピング・ダイアログ(複数の登場人物が同時に喋り、台詞が重なり合う手法)を、PTAはより音楽的なリズムとして継承した。
アルトマンがズームレンズによって客観的に人間模様を覗き見たのに対し、PTAはステディカムによる流麗な長回しを用い、観客をその混沌の渦中へと引きずり込む。手法は違えど、カットを割らずに、その場の空気とアンサンブルを丸ごと記録するという作家精神は、両者に共通する確固たる背骨となっている。
二人の絆が最も象徴的に現れたのが、ロバート・アルトマンの遺作『今宵、フィッツジェラルド劇場で』(2006年)だ。当時80歳を超え、心臓疾患を抱えていたアルトマンに対し、保険会社は万が一のバックアップ・ディレクターを立てることを条件とする。その際、アルトマン自らが指名したのが、当時すでに天才の名をほしいままにしていたPTAだった。
PTAは自身のキャリアが絶頂期にあるにもかかわらず、巨匠の保険として現場に毎日通い詰めた。彼は決して自分の色を出そうとせず、あくまでアルトマンのビジョンを支える黒子に徹した。
後にPTAはこの経験を「最高の映画学校に通ったようなものだった」と回想している。俳優を自由に泳がせ、現場で起こる予期せぬハプニングを魔法のように映画に取り込んでいくアルトマンの姿は、完璧主義者だったPTAの演出観を大きく変えることになった。
アルトマンが2006年にこの世を去った直後、PTAは歴史的傑作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)を発表する。それまでのアルトマン風群像劇から一変し、一人の男の狂気を追う重厚なドラマへと舵を切ったこの作品のエンドクレジットには、「For Robert Altman(ロバート・アルトマンに捧ぐ)」という献辞が静かに刻まれている。
それは、スタイルとしてのアルトマン模倣を卒業し、一人の自立した映画作家として師に捧げた、最高の手向けであった。アルトマンが『ナッシュビル』(1975年)などでアメリカ社会の偽善を抉り出したように、PTAもまた、石油と宗教という切り口からアメリカの根源的な闇を暴き出したのである。
PTAの覚醒とキューブリック的空間支配
無数のキャラクターの人生が交錯するタペストリーを破り捨て、代わりにPTAが選び取ったのは、一人の男の狂気に焦点を絞った一大叙事詩。
その冷徹な語り口、その張り詰めたタッチは、明らかにアルトマンではなく、もう一人の映画の神──スタンリー・キューブリックを強烈に意識したものだ。
それが最も顕著に表れているのが、一点透視図法の徹底的な運用。天を衝く油井の櫓、暗く閉ざされた坑道の梁、まっすぐに伸びる線路、そして終盤のボウリング場のレーン。
フレーム内のあらゆる直線要素が画面奥の消失点へと容赦なく吸い込まれるように配置され、観客の視線は常に画面の中央、すなわち逃げ場のない暴力の震源地へと強制的に導かれる。
それはまるで、『2001年宇宙の旅』(1968年)におけるHAL9000が支配する無機質な通路や、『バリー・リンドン』(1975年)の冷え切った貴族のサロンのよう。空間そのものが、人間の矮小な感情を押しつぶす秩序として君臨しているのである。
さらに、広大な荒野を捉えたロングショットでは人間が粒のように極端に小さく置かれ、巨大な余白が観客の心理を圧迫し続ける。これは『シャイニング』(1980年)におけるオーバールック・ホテルの廊下と同質のものであり、空間が登場人物の内面を吞み込む演出論の極致と言える。
カメラの運動も、エモーショナルな快走ではなく、水平・垂直の軸に沿った幾何学的な移動に徹底されている。炎上する油井を巡るトラッキング・ショットはダイナミックでありながら、その速度は不気味なほど抑制されており、時間がねっとりと伸張していく。あの遅延の感覚は、キューブリックが好んだ不可逆の圧力の再現に他ならない。
PTAのキューブリック性は、単なるオタク的なオマージュの域を遥かに超えている。彼は、人間の心理を抽象化し、空間と時間の統御によって「資本主義という暴力の構造」を剥き出しにするための言語として、キューブリックの文法を確信犯的に召喚したのだ。
この映画は一見すると冷徹に見えるが、実は冷たさという定規を用いて、地下深くで煮えたぎる人間の熱(欲望)を正確に計測しているのである。
資本主義という名の流血神話
原作は、アプトン・シンクレアが1927年に発表した小説『石油!』。南カリフォルニアの石油採掘ブームを舞台に、労働運動、社会主義の勃興、そして政商癒着の象徴であるテポト・ドーム事件に至るまで、アメリカ資本主義の暗部と腐敗を鋭く風刺した壮大な政治的寓話だ。
だがPTAは、この大河小説からバニーという青年の成長譚や複雑な政治闘争の要素を、巨大な鉈で叩き斬るように大胆に削ぎ落とした。彼が執執深く掬い取ったのは、物語の前半に凝縮された〈大地に穴を穿ち、掘る〉というプリミティブな肉体労働のプロセスと、ひとりの石油成金の底知れぬ執念だけである。
結果として、物語はダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)という一人の怪物と、若き狂信的牧師イーライ・サンデー(ポール・ダノ)という、二人の強烈な対立構造に完全集約された。
「資本の増殖」と「宗教の虚飾」。アメリカという国家を根底から支え、そして蝕んできたこの二つの巨大な暴力が、土埃にまみれた荒野で真正面から衝突する図式が浮き彫りになるのだ。
タイトルである『There Will Be Blood(血は必ず流れる)』は、資本主義というシステムが成立し、駆動していくために不可避的に要求される“血の代償”を示す、呪いの言葉。
石油は「黒い血」と呼ばれる。大地から血を吸い上げるようにして掘削されたその資源は、プレインビューに莫大な富をもたらすと同時に、争い、裏切り、家族の崩壊、そして本物の流血を呼び寄せる。彼の成功譚は、華々しいアメリカン・ドリームの皮を被った、血にまみれた資本の生成史そのものなのだ。
しかもPTAは、ダニエル・プレインビューという主人公のバックグラウンドを、恐ろしいまでにオミットしている。彼がなぜこれほどまでに富に執着するのか?なぜイーライのキリスト教に対して異常なほどの嫌悪感を抱いているのか?
そして極端に女性の影がないのは、彼が性的不能者だからなのか?(弟を名乗る男との会話から、かつて宗教的理由で生殖器を切断されたのではないか、という恐ろしい深読みすら成立してしまう)。PTAは、一代で富を築き上げた男の背景を説明することを完全に放棄した。
だが、これこそが本作の異常な強度を保証する。ダニエル・デイ=ルイスの悪魔に取り憑かれたような怪演によって具現化されたプレインビューは、もはや血の通った一人の個人ではない。彼は資本主義そのものの化身であり、欲望のシステムが受肉した亡霊なのだ。
内面を持たない空っぽの器だからこそ、底なしの資本の論理を無限に飲み込むことができる。この映画は一人の男の伝記ではなく、資本主義という怪物が産声を上げ、世界を喰い尽くしていく様を描いた、身の毛もよだつ神話なのだ。
神経を削る不協和音
そして、この映画を傑作たらしめている最大のピースが、レディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドによる驚異的なスコアだ。それは単なる映像の伴奏を遥かに超え、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の世界観を根底から支配し、駆動させている。
彼がこの荒野の叙事詩に導入したのは、弦楽器の不穏なクラスター和音や、神経をノコギリで挽くようなグリッサンド。それは地下数千フィートで圧縮された地球のエネルギーが、今にも地上へと噴き出そうとする、脈動と圧力そのものの音だ。
さらに特筆すべきは、初期の電子楽器であるオンド・マルトノの使用。その独特の揺らぎと幽玄な音色は、土と油にまみれた無機質な空間に人ならざる亡霊の声を忍び込ませ、プレインビューの狂気にまとわりつく呪いのように響き続ける。
楽曲「Open Spaces」では持続する弦が地層の重圧を鳴らし、「Future Markets」では短い断片の反復が資本市場の狂騒と機械的な駆動を刻み込む。
油井が大火災を起こし、吹き上がる炎をプレインビューが歓喜の表情で見上げるシークエンスでは、既存の現代音楽(アルヴォ・ペルトなどの影響を感じさせる不協和音)を再利用し、制御不能に陥った人間の欲望を音響の暴力として聴覚化してみせた。音楽が感情を説明するのではなく、音そのものの物質的な摩擦と圧力が、観客の皮膚を直接突き刺してくるのだ。
さらに圧巻なのが、ラストのボウリング場での惨劇における選曲。すべてを失い、完全に狂気の底へと落ちたプレインビューが、イーライを「お前のミルクシェイクを飲み干してやる!」と罵倒し、ボウリングのピンで撲殺するあの恐るべき結末。
そこに唐突に鳴り響くブラームスの「ヴァイオリン協奏曲 第3楽章」の古典的で優雅な高揚感は、究極のアイロニーとして機能し、資本と暴力が勝利したを高らかに告げる。
ジョニー・グリーンウッドのこのスコアは、ベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞するという快挙を成し遂げながらも、既成曲や過去の自作曲の転用が含まれていたため、アカデミー賞のノミネート資格を失うという憂き目に遭った。
しかし、ハリウッドの保守的なルールに到底収まりきらないその異端の在り方自体が、彼の実験性と本作の計り知れないスケールを物語っていると言える。
血のように黒く、ドロドロとした石油にまみれたこのフィルムは、誰もが容易に近づくことを許さない異様な殺気と熱を放ち続けている。PTAは、アルトマンの魂を引き継ぎながらも、キューブリックの冷徹な眼差しと独自の狂気を融合させ、誰も到達できない高みへと駆け上がった。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、人間の欲望の果てを記録した、絶対的な金字塔である。
- 監督/ポール・トーマス・アンダーソン
- 脚本/ポール・トーマス・アンダーソン
- 製作/ジョアン・セラー、ポール・トーマス・アンダーソン、ダニエル・ルピ
- 製作総指揮/スコット・ルーディン、エリック・シュローサー、デヴィッド・ウィリアムズ
- 制作会社/ミラマックス、パラマウント・ヴァンテージ
- 原作/アプトン・シンクレア
- 撮影/ロバート・エルスウィット
- 音楽/ジョニー・グリーンウッド
- 編集/ディラン・ティチェナー
- 美術/ジャック・フィスク
- 衣装/マーク・ブリッジス
- ブギーナイツ(1997年/アメリカ)
- マグノリア(1999年/アメリカ)
- パンチドランク・ラブ(2002年/アメリカ)
- ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(2007年/アメリカ)
- ファントム・スレッド(2017年/アメリカ)
![ゼア・ウィル・ビー・ブラッド/ポール・トーマス・アンダーソン[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/71u7Lv-jhSL._AC_SL1250_-e1758989605144.jpg)
![今宵、フィッツジェラルド劇場で/ロバート・アルトマン[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/81nuYUgh-KL._AC_UL640_FMwebp_QL65_-e1773181382706.webp)
![シャイニング/スタンリー・キューブリック[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/91A47QlGnOL._AC_SL1500_-e1707038272263.jpg)
![石油!/アプトン・シンクレア[本]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/51Kwam8ruHL.jpg)
![There Will Be Blood(Soundtrack)/ジョニー・グリーンウッド[CD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/81Gqoydc4TL._AC_UL640_FMwebp_QL65_-e1773182373705.webp)