ゲイの老人ホームに向けられた、犬童一心の残酷かつ冷徹なまなざし
『メゾン・ド・ヒミコ』(2005年)は、僕のなかで絶対に観に行かなければならぬマストウォッチムービーだった。理由は2つ。『ジョゼと虎と魚たち』(2003年)で新しい恋愛映画の地平を開いた、監督/犬童一心、脚本/渡辺あやのコンビ作であること。
僕のミュージックライフに革命的な影響を与えたCDが、細野晴臣が手がけたサウンドトラック・アルバム『銀河鉄道の夜』(1985年)な訳なんだけども、今回の作品でホソノ氏が18年ぶりに映画音楽を手がけていること。この2つの理由によって、僕の足は磁石のように渋谷・スペイン坂方面に引き寄せられてしまったのである。
犬童一心は残酷なファンタジー作家だ。彼は何ものにも束縛されない自由への飛翔を、リリカルに描き出す。しかしその裏には、冷徹な現実感が貼り付いている。心弾むファンタジーと拮抗するように、容赦のない現実を突きつける。
だから彼の映画には、優しさと痛みが同居している。愛し合う男女のキスも、触れ合いも、そしてセックスも。希望と不安が不可思議なグラデーションを描いて、残酷なファンタジーが生成されるのである。
本編の舞台であるゲイの老人ホーム『メゾン・ド・ヒミコ』は、まさにファンタジックな理想郷だ。カリスマ・ゲイの卑弥呼がその全財産を投じて造り上げたその空間は、まるで難民を受け入れるごとく、人生に疲れ果てたゲイの老人たちを優しく受け入れ、俗世間と乖離されたユートピアを構築している。
しかしそこに、かつて自分と母を捨てた実の父親・卑弥呼に憎悪を抱く柴咲コウが登場することによって、事態は急変する。
突然の闖入者の乱入によって、『メゾン・ド・ヒミコ』は 「甘美な幻想」というファンタジーと、「残酷な現実」という現実の波が交互に打ち寄せる、危うい空間に変貌してしまうのである。
尾崎紀世彦の『また逢う日まで』にのせて、突然オダギリジョーと柴咲コウが楽しそうに踊りだすシーンが挿入されたかと思えば、互いに憎からず想っている二人が実際にセックスしようとすると、ゲイであるオダギリジョーが、身体的に彼女を受け入れられなかったりするシーンが挿入される。観客は常に希望と不安にさらされるのだ。
柴咲コウが父親の卑弥呼に、どんなに至極当然で真っ当な意義を唱えても、彼は「あなたが好きよ」という言葉で返答するのみ。この両者の溝は最後まで埋まることはなく、対立項の図式は崩されぬまま、 少しずつファンタジーのメッキは剥がされていく。
ラストシーンで 柴咲コウが『メゾン・ド・ヒミコ』に戻ってくるシーンを、「ファンタジーと現実の融和」と考えるのは、楽観的すぎる意見だろう。この老人ホームはなお存亡の危機にさらされているし、オダギリと柴咲の恋愛が成就することもない。
僕は犬童一心の残酷なほどに冷徹なまなざしに、ただただ平伏するのみ。そしてこの不思議に優しい痛みを、再び甘受したいと願ってしまうのだ。
- 製作年/2005年
- 製作国/日本
- 上映時間/131分
- 監督/犬童一心
- 脚本/渡辺あや
- プロデューサー/久保田修、小川真司
- 音楽/細野晴臣
- 撮影/蔦井孝洋
- 美術/磯田典宏
- 照明/疋田ヨシタケ
- 衣装/北村道子
- 編集/阿部亙英
- 録音/志満順一
- 衣装/北村道子
- オダギリジョー
- 柴崎コウ
- 田中泯
- 西島秀俊
- 歌澤寅右衛門
- 青山吉良
- 村上大樹
- 新宿洋ちゃん
- 森山潤久
- 井上博一
- 柳澤愼一
- 大河内浩
- 高橋昌也
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