「神は死んだ」とのお言葉で著名な思想家ニーチェは、
人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎないのか。
という含蓄に溢れた金言も残していらっしゃいます。
僕を含め一般ピーポーには、「そんなこと言われても、そもそも神様とか信じてねーし・・・」と右から左に受け流すしかないが、牧師の息子として生を受け、神の不在について逡巡を重ねてきたイングマール・ベルイマンにとっては、真摯に向かわざるを得ないイシューであった。
いつの時代も“無垢なるもの”は汚され、辱められ、犯される存在として登場する。豪農の一人娘として大事に育てられた、世間知らずのじゃじゃ馬娘カーリンは、まさに純真無垢のアイコンとして登場する。
彼女が白樺の林を馬で駆け抜けるショットに象徴される、汚れなき処女性=白というイメージは、カーリンに激しい嫉妬心を覚える身重の召使インゲレの、絶望と猜疑心=黒というイメージと完璧な対照を成す。
やがてカーリンは2人の羊飼いの男と1人の少年のよこしまな思惑によって、強姦された末に惨殺される。露出される透き通るような白い肌に、思わず土をかける少年。
ここでも聖性と俗性は、白と黒という非常に明瞭なコントラストによって明示される。あまりにぶっきらぼうに提示される唐突な死は、しかしながらベルイマンの抑揚の効いた語り口によって、まるで陽だまりの中のピクニックのように、柔らかなトーンで描出されるのだ。
昼が夜に、太陽が消えうせ暗くたちこめた雪雲が世界を覆い隠すと、トーンは一転して冷ややかさを増し、物語を過酷なまでに引き締めていく。
やがて繰り広げられる、神の意志に背くかのような復讐劇。しかし、マックス・フォン・シドーの瞳に燃える炎は、復讐の狂気に取り憑かれた男のそれではなく、己の運命を見定めた決意の証だ。
彼が巨木をなぎ倒すカットは、まるで神話に登場する勇者のごとき高潔さと崇高さをたたえている。
ラスト、神に祈りを捧げるマックス・フォン・シドーを、ベルイマンはバックショットから捉える。映画が最も高揚する瞬間すらも、彼は役者の顔をアップで捉えることを拒否するのだ。
もはや「静謐」という表現では収まりきらない神性をも、ベルイマンは勝ち得たのか。黒澤明の『羅生門』(1950年)大きな影響を受けたという『処女の泉』は、北欧から届けられた驚くべきアンサー・フィルムである。
…ちなみにW・クレイヴンは、この映画から違った意味で影響を受けて、血みどろスプラッター映画『鮮血の美学』(1972年)を撮ってしまった。
ニンゲン、色んな受け取り方があるものです。
- 原題/Jungfrukallan
- 製作年/1960年
- 製作国/スウェーデン
- 上映時間/86分
- 監督/イングマール・ベルイマン
- 脚本/ウラ・イサクソン
- 製作/イングマール・ベルイマン、アラン・エクルンド
- 撮影/スヴェン・ニクヴィスト
- 美術/P・A・ルンドグレン
- 衣装/マリク・ヴォス
- 音楽/エリック・ノードグレン
- マックス・フォン・シドー
- ビルイッタ・ヴァルベリ
- グンネル・リンドブロム
- ビルギッタ・ペテルスン
- エレン・グリーン
- アクセル・デュベルグ
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