宮崎駿が、全ての同世代の子供たちへ送ったエール
宮崎駿がそれを知っていたかどうかは分からないが、児童心理学者の研究によれば、10歳という年齢が親離れの節目として注目されているそうである。
『千と千尋の神隠し』の主人公千尋も、最大公約数的なキャラクターの10歳のごくフツーの少女だ。親の転勤で慣れ親しんだ学校や友達と別れるハメになり、ブーたれてる甘えん坊な女の子である。そんな彼女が不思議の国に迷いこんで、ブタに変えられてしまった両親を救い出そうと奮闘する。
印象的なのは主人公の千尋が、「千尋」という名前を剥奪されて「千」という記号を与えられてしまうところだ。
名前を失うということは、彼女が個としてのアイデンティティーを喪失してしまうことと同義。「千」となった少女は自己を取り戻すために働かなくてはならない。生きなくてはならない。
ちょっとでも「帰りたい」とか「いやだ」などと口にすれば、千尋の存在は消滅してしまう。これは自己をとりもどす為に、内的確信を深めていくプロセスを描いた作品とも言える。
カオナシというキャラクターは、いわば千尋が「アイデンティティー」を確立していく為の触媒として登場する。
「自己」のない彼(彼女?)は、他者を吸収することでしか自分を表現できない。ボーダーレス化が進み、自分を見失いがちなこの世の中で、人は何を盾にして地面に足をつけるのか。
自己がなければ淘汰されてしまうこの世界で、千尋はただひとりカオナシに正面から向き合おうとする。その凛とした強さ、逞しさに我々は千尋の成長をみる。
インタビューのたびに「この作品は 知り合いの女の子のために作ったんです」と繰り返している宮崎駿だが、特定の子供のために製作された映画が、日本映画史上最高の興行記録をマークするのだからスゴイ話である。
だが、これは真実だろうか。どうも彼特有のブラフであるような気がしてならない。
宮崎駿は子供のためにアニメを造り続けてきながら、自らの作品の為に子供たちが子供らしい経験や体感を得られていないのではないかというジレンマに陥っていた。
突き抜けるような空、土や草の匂い、子供の時だからこそ感じられる生命の息吹きみたいなものを、今の子供たちは宮崎駿のアニメによって代理体験しているのではないか。
バーチャルではなく、実際に皮膚で感じて欲しい。根本的な矛盾を抱えながら、宮崎駿はアニメーション製作に没頭してきた。宮崎がこの作品で示したのは、全ての同世代の子供たちへ送ったエールである。
千尋が迷いこむ不思議の町…それは実生活において、子供たちが新しく目にする社会そのものである。湯婆婆も釜爺も蛙たちも、これから出逢っていくあろう「大人」たちである。
あらゆる欲望が渦巻く世界の中心に、突如千尋は放り込まれる。これ程「生きる」ということを生々しく、デフォルメして描いた作品は過去のジブリ作品にはなかった。
この世代の子供たちは、水のような浸透性のある「こころ」を持っている。大人になるということは、その浸透性が少しずつ失われていく行程なのかもしれない。
木村弓の歌う主題歌にこんな節がある。
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされていけ
願わくは、希望に満ちあふれた光によって、そのからだを充たして欲しい。
『風の谷のナウシカ』(1984年)や『もののけ姫』で、自然界においる人間という存在を否定し続けねばならなかった宮崎駿は、その倒錯した思いを次代の子供たちに託した。
推測だが、おそらく宮崎駿は今現在こういうテーマでなければアニメーション製作に情熱を燃やせないのではないか。
この作品完成後、宮崎駿はまたしても「これで引退」などと嘘ぶいているらしいが、どちらにしろ『天空の城ラピュタ』や『ルパン三世 カリオストロの城』のような純粋冒険活劇は未来永劫つくられないだろう。
彼のモチベーションを保ち続けられるテーマこそが、アニメ製作の原動力となる。純粋な「アニメのためのアニメ」は、とうの昔に彼の手を離れていった。
決して僕はこのような作品を否定しないが、もう一度アニメ職人としての宮崎駿を見せて欲しいと願ってしまうのである。
- 製作年/2001年
- 製作国/日本
- 上映時間125分
- 監督/宮崎駿
- 脚本/宮崎駿
- 原作/宮崎駿
- 製作総指揮/徳間康快
- プロデューサー/鈴木敏夫
- 音楽/久石譲
- 編集/瀬山武司
- 美術監督/武重洋二
- 作画監督/安藤雅司、高坂希太郎、賀川愛
- 色彩設計/保田道世
- 柊瑠美
- 入野自由
- 夏木マリ
- 菅原文太
- 内藤剛志
- 沢口靖子
- 上條恒彦
- 小野武彦
- 我修院達也
- 神木隆之介
- 玉井夕海
- 大泉洋
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