「女である自分」、「生まれてきた理由」という根源的な問いに対峙するための、表現手段
『加爾基 精液 栗ノ花』(2003年)を聴きながら、椎名林檎の初期からのファンは、どれだけ現在進行形の彼女に付いてこれているんだろう、と余計な心配をしてしまった。
だってそうではないか?もはや8ビートで刻まれるバンド・サウンドは遥か昔、エレクトロニカ、ビッグ・バンド、昭和歌謡、ノイズなど、和洋折衷にしてフリーフォームなサウンド・テクスチャーが全編を覆い、パーカッション、ウッドベース、ピアニカ、カリンバ、マンドリン、シタール、琴、篠笛で演奏された多彩な音のコラージュが、過剰なまでに楽曲を補強している。
デビューからわずか5年あまり、3枚目のアルバムでここまで飛翔されてしまうと、脆弱なリスナーは「より濃厚な言霊と音響」を求めて彷徨う、彼女の強烈なパワーに力負けしてしまうこと必至。
そもそもCDショップに出向いて、「カルキ・ザーメン・くりのはなを予約したいんですけどぉ」という勇気がキミにはあったか?
彼女のセルフ・プロダクションによって緻密に設計された筆致は、もはやプリミティヴな初期衝動に突き動かされた結果ではない。結婚→妊娠→出産(後に離婚)というプロセスを経て、「女である自分」、「生まれてきた理由」という根源的な問いに対峙するための、表現手段である。
より濃密さと荘厳さを増した楽曲たちは、椎名林檎という一人の女性の表皮をめくりとり、よりヴィヴィッドに、より直裁に、リスナーに訴えかけてくる。
椎名林檎のヴァギナを熱く濡らし、カルキ臭いザーメンを並々と注ぎ込み、激しい高揚と恍惚を覚えさせる性行為。その対象者は、「我々」という総体ではなく、「私」という一人称そのものだ。
椎名林檎は究極のコミュニケーションを求めて、「私とあなた」という一対一の世界に還元せしめ、聴く者に緊張を強いる。純粋なエゴイズムが強烈なエモーションを伴って着地するとき、それは表現として地肉化するのだ。
- アーティスト/椎名林檎
- 発売年/2003年
- レーベル/東芝EMI
- 宗教
- ドッペルゲンガー
- 迷彩
- おだいじに
- やっつけ仕事
- 茎
- とりこし苦労
- おこのみで
- 意識
- ポルターガイスト
- 葬列
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