『A Little Bit of Somethin'』(2000年/トミー・ゲレロ)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー
『A Little Bit of Somethin’』(2000年)は、トミー・ゲレロが発表した2作目のアルバムであり、彼自身とガッド・ゲッツのプロデュースによって制作された。ストリートの熱気を含んだメロウなギター・リフと、素朴でありながら芯の強いリズムが柔らかく溶け合い、アブストラクト・ヒップホップの実験性とフォークのような親しみやすさが自然に共存する。「Blue Masses」「It’s Raining Again」「Soul Miner」などの楽曲が収録され、抑制された音数の中に、サンフランシスコの夕暮れを思わせる親密な温度が漂う。彼が自身のスケートカルチャーの背景と音楽的探求に深く向き合い、インストゥルメンタル・ミュージックにおいて新しいサウンド領域を切り開いた一枚である。
ストリートの英雄と、文化系非モテ男子の深い断絶
世界にはあまたのウェブサイトが存在するというのに、わざわざこんな辺境のポップカルチャー・コラムを読んでいるキミは、きっと僕と同じようにイケてない非モテの文化系に違いない。
頭が特別良いわけでもなく、かといってスポーツ万能で腕力があるわけでもない。スクールカーストの上位陣が放つトキメキやキラメキとはてんで無縁の、教室の隅っこで息を潜めるような哀しきスクール・デイズを送っていた同類のはずだ。
そんな僕にとって、プロ・スケートボーダーなんていう輩は、別の銀河系に住むエイリアンと同義であり、一生お友達にはなれそうもない人種だった。
だいたい80年代から90年代にかけてのストリート・カルチャー周辺の連中といえば、自己主張の激しいオラオラ系ばかりで、鼻持ちならない厚顔無恥な奴らが幅を利かせているという偏見が、僕のなかに根強くあったのだ(もちろん、そこには持たざる者の多大なるヒガミが含まれているわけだが)。
ステイシー・ペラルタが結成した伝説のプロ・スケートボード・チーム「ボーンズ・ブリゲード」の一員として10代の頃から脚光を浴び、スケートビデオの金字塔『アニマル・チンを探して』(1987年)などでイケてる青春時代を謳歌したトミー・ゲレーロも、当時の僕からすれば当然その近寄りがたい連中の筆頭だった。
サンフランシスコのストリートを自由自在に滑走し、時代のアイコンとしてもてはやされた彼と、自室でちまちまとレコードやCDのライナーノーツを読みふけっていた僕とでは、見ている風景が根本的に違いすぎた。
だから、彼が独学でギターとベースを学び、気鋭のミュージシャンとしてソロ・アルバム『Loose Grooves & Bastard Blues』(1997年)をリリースしたと音楽誌で知ったときも、当初はまったく食指が動かなかった。
「どうせスケーターの余技だろ」「流行りのハードコア・パンクか、やかましいミクスチャー・ロックでもやってるんでしょ」と高を括り、完全に無視を決め込んでいたのだ。
ターンテーブルとアコースティックの邂逅
ところが、ひょんなことからジェームス・ラヴェル主宰のUKレーベル「Mo’ Wax」からリリースされた彼の2ndアルバム『A Little Bit Of Somethin’』(2000年)を聴いてみて、僕は度肝を抜かれることになった。
スケートボーダーとして鳴らしたストリートの猛者だから、さぞかしハイテンポでアッパーなヒップホップやパンクが展開されると思い込んでいたのに、ヘッドホンから流れてきたその正体は、拍子抜けするほどユルくてレイドバックしたアブストラクト・サウンドだったからだ。
控えめなBPMで刻まれるブレイクビーツに合わせて、メランコリックでグルーヴィーなギター・リフが静かに鳴り響く。その音響空間は、ベックの初期作やトータスのようなポスト・ロック勢、あるいはビースティ・ボーイズがインストゥルメンタルに特化した時のジャジーな質感にも近似していた。
攻撃性やマッチョイズムといったストリート特有のトゲトゲしさは完全に削ぎ落とされており、ただひたすらに心地よい音の波だけがループしていく。あまりの気持ち良さに、立ったまま思わずウトウトしてしまいそうになるほどの衝撃だった。
それはまるで、西海岸の乾いた爽やかな風が、スケボーに乗ったことすらない僕の背中を優しく押しやってくれるかのような、不思議で親密な心地よさ。
特にアルバムの5曲目に収録されている『100 Years』なんて、激しい運動を終えたあとのアフターパーティーのような、あるいは誰もいなくなった昼下がりの路地裏のような、気怠くも甘い倦怠感に満ち満ちている。
僕はここで初めて、トミー・ゲレーロという男が単なるフィジカルのエリートではなく、極めて繊細で内省的な耳を持った音楽家であることを思い知らされたのだ。
サーフとスケートの環境学
しかし、ゲレーロの紡ぐサウンドにどっぷりと浸かるようになると、その音が一見爽やかながら、深いところでどこか病理的な匂い──都市の陰鬱さのようなもの──を孕んでいることに気がつく。
同じ西海岸発のオーガニック&アコースティック系ミュージシャンという立ち位置で、何かと比較されることの多いジャック・ジョンソンが、いかにも健康的なサーフ・ミュージックを次々にリリースしているのとは、実に対照的な響きを持っているのだ。彼らの音楽性の違いは、そのまま「サーフィン」と「スケートボード」という二つのカルチャーが持つ環境論的な差異に直結している。
世俗から離れ、雄大な大海原で太陽の光を浴びながら爽やかな潮風を存分に吸い込むサーファーは、自然との調和を謳い、健康的なオーガニック・ライフへと向かいやすい。ジャック・ジョンソンの音楽から漂う、あの屈託のないアコースティックの響きは、まさに海の産物だ。
一方でスケートボーダーは違う。彼らの主戦場はどこまでいってもコンクリートとアスファルトの都市空間だ。ゴミが散乱する路地裏、水が抜かれた廃プールの底、落書きだらけの壁。街のあらゆる毒素や排気ガス、人間の生活臭を肺いっぱいに吸い込みながらライディングするスケーターたちは、知らないうちに都市のダウナーな空気をその身に溜め込んでいる。
ゲレーロのギターの奥底で常に鳴っている、少しざらついたノイズや哀愁を帯びたブルージーな響きは、サンフランシスコの冷たいコンクリートが発する溜息そのものなのだ。
孤独な反復が生み出す、ダウナーな心地よさの正体
ゲレーロの音楽を形作っている「ブレイクビーツの反復」という要素も、実はスケートボードの本質と深く結びついている。スケボーという競技は、派手なジャンプやトリックの華やかさばかりが注目されがちだが、その習得過程は想像を絶するほど地味で孤独だ。
ひとつのトリックを成功させるために、転んでは立ち上がり、コンクリートに体を打ち付けながら、同じ動作を何百回、何千回と狂気的に反復し続けなければならない。それはスポーツというより、ほとんど求道的な儀式に近い。
『A Little Bit Of Somethin’』の全編を貫く、あの反復されるビートとミニマルなギターのループ構造は、まさにスケーターが孤独にトリックを繰り返すストイックな精神状態の音源化と言える。
華やかなストリートの群れから離れ、ひとりで黙々と自分の内面と向き合うようなその孤独な響きがあったからこそ、イケてない文化系男子だった僕の心の奥底にも、彼の音楽はすんなりと入り込んできたのだ。派手なパフォーマンスの裏側に隠された、オタク的とも言える執念と孤独。それこそが彼の音楽の核心だ。
音楽というものは、ただ綺麗なメロディとしてそこにあるだけでは、いまいち胸に迫る説得力を持ち得ないものだ。そこには、音を鳴らす人間の背負っている風景や、吸い込んできた空気の重さが必要になる。
オーガニックで健康的な光に満ちたジャック・ジョンソンももちろん素晴らしいが、都市の憂鬱と孤独な反復を美しいループ・ミュージックへと昇華させたトミー・ゲレーロの音楽のほうに、僕はどうしようもなく惹かれてしまう。
そんな訳で、僕は今日も部屋の隅っこで、コンクリートの匂いがする彼のアブストラクト・ブルースを強烈にプッシュし続けるのであります。
- 1. Blue Masses
- 2. Four TRK Samba
- 3. Tiny
- 4. Numb Milleneum
- 5. 100 Years
- 6. Pescadito
- 7. Azucar
- 8. Flux and Meter
- 9. It's Raining Again
- 10. Today Like Everyday
- 11. Soul Miner
- 12. As the Sea Holds Creatures Vast and True
- 13. So Blue It's Black
- 14. Little Chin
- 15. Exzebache
- A Little Bit of Somethin'(2000年)
![A Little Bit Of Somethin'/トミー・ゲレロ[CD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/51KPbwY5lKL.jpg)