『Out Of Noise』(2009年/坂本龍一)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー
『Out Of Noise』(2009年)は、坂本龍一が発表したアルバムであり、彼自身のプロデュースによって制作された。北極圏で録音された流氷の軋みや風の音といったフィールド・レコーディング素材と、ピアノや弦楽器のアコースティックな響きが柔らかく溶け合い、音楽と環境音の境界が自然に共存する。「hibari」「hwit」「glacier」などの楽曲が収録され、リズムや装飾を削ぎ落とした空間の中に静謐で透徹した温度が漂う。彼が自然環境と音の関係性に深く向き合い、サウンドそのものの響きと静寂を探求した。
咀嚼しないアンビエントの極致
2009年の春に僕は単身京都へ遊びにいったのだが、龍安寺の方丈庭園でも、伏見稲荷大社の千本鳥居でも、僕はただひたすらiPodで『Out Of Noise』(2009年)を聴いていた。
枯山水的というか、一切の装飾を排した厳然たるストイシズムに、このアルバムは抜群の相乗効果をもたらすようである。いつしか僕の身体は、クリスタルのように澄んだ穏やかさに満たされ、深い深い羊水の底に身を浸していた。
分厚い雲が太陽を覆い隠すモノトーンの世界。しかし、その雲の切れ間から、一筋の光が燦々と差し込んでいる…。初めて僕がこのアルバムを聴いたときに浮かんだ風景は、そのようなものだった。
実際この『Out Of Noise』は、坂本龍一が北極圏のグリーンランドを訪れた体験が大きな影響を及ぼしているらしい。大自然の圧倒的な脅威と美しさ。地球温暖化の最前線であるその地で彼が採集した音は、環境音のサンプリングというレベルを遥かに超えている。
M-8の「disko」では、グリーンランドにあるディスコ島でそりを引く犬の野性的な鳴き声に、小山田圭吾の浮遊感あふれるドリーミーなギター・カッティングが幾重にも重ね合わせられている。
さらにM-9の「ice」は、極寒の北極圏の海中にマイクを突っ込んで直接録音した氷河の軋む音や水の響きを、そのままトラックの骨格として採用しているのだ。
当時のインタビューで、坂本龍一はこう語っている。
北極圏での体験はいまだに咀嚼できないし、だから言葉で表現することも難しい
彼は大自然の脅威を、音楽的な起承転結に押し込めて咀嚼することを拒否した。伝統的な和声進行にとらわれることなく、その音の「響き」だけを純化して取り出す。
そうすることで、北極の冷たく澄み切った空気が流れる、誰にも触れられない“静謐な世界”を音楽として丸ごと創造し得たのである。この咀嚼しない勇気が、『Out Of Noise』をゼロ年代における至高のアンビエント・ミュージックたらしめた最大の理由だろう。
ビートを超越する“ゆらぎ”の魔法
このストイックすぎるアルバムの中で、僕が最も愛聴してやまないのが、オープニング・トラックのM-1「Hibari」だ。
ひとつのシンプルなメロディーの断片が、まるで静かな水面に落ちた水滴のように波紋となって広がり、空中で揺らぎ、そしてまた幾重にも重なって広がって行く。
幾何学的に音のかけらを配置した、極めてミニマルなサウンドスケープ。ピアノの残響音がゆっくりと層を成して積み重なって行くその圧倒的な構造は、聴く者の時間感覚を完全に麻痺させ、永遠に続く無時間性すら感じさせる。
音楽における究極の美しさとは、ひょっとしたらメロディーの美学でもなく、心拍数を上げるビートの強さでもなく、音と音の間に生じる微細な“ゆらぎ”と“残響”の中にこそ存在しているのではないか。
この曲を聴いていると、そんな哲学的な真理すら突きつけられているような気がしてならない。
カーボンオフセットとシャッター音
このアルバムがリリースされた直後の2009年3月18日(水)、僕は東京国際フォーラムで開催された坂本龍一の「Ryuichi Sakamoto Playing the Piano 2009」ツアーの初日を観に行った。
まず驚かされたのは、チケット代。8,400円というのは当時としては少し高額な設定だったが、実はこの金額の中には、ライブを開催することで発生するCO2を相殺するための「カーボンオフセット代」がちゃっかり含まれていたのだ。
アルバム『Out Of Noise』のCDパッケージにも同様のカーボンオフセットが導入されていたが、いかにも環境問題に熱心な教授らしい、極めて洒落た、そして知的な発想なり。
さらにMCでは、「今回のツアーのライヴの曲順は、毎日その場で場当たり的に決めている」とサラリと言ってのける。これって完全に、元妻である天才・矢野顕子の自由奔放なプレイスタイルからの影響じゃないのか!?と思わずニヤリとしてしまったものだ。
そして、このライブ最大のハイライトは、中盤の「composition 0919」の演奏時にやってきた。なんと「この曲の演奏中に限り、客席から自由に写真を撮っていい!」という、前代未聞の試みが発表されたのだ。
当然、会場中から一斉に「カシャッ!カシャシャッ!」という何千台ものケータイ電話のシャッター音がけたたましく鳴り響いたのだが、これが最高にヤバかった。
本来なら音楽の邪魔になるはずのそのランダムなノイズが、逆に『未来派野郎』(1986年)に収録された名曲「Ballet Mecanique」のあのメカニカルなビート音のように聴こえてきて、教授の弾くアバンギャルドなピアノと見事なまでに調和していたのだ。客席から焚かれる無数のフラッシュの光も、まるで電子音楽の視覚効果のように幻想的。
『Out Of Noise』(ノイズの外へ)と題されたアルバムのツアーで、観客が発するノイズすらも瞬時に音楽の一部として取り込んでしまう。坂本龍一という作曲家の底知れぬ凄みに、僕はただただ圧倒されたのである。
- 1. hibari
- 2. hwit
- 3. still life
- 4. in the red
- 5. tama
- 6. nostalgia
- 7. firewater
- 8. disko
- 9. ice
- 10. glacier
- 11. to stanford
- 12. composition 0919
- 未来派野郎(1986年/ミディレコード)
- Beauty(1989年/ヴァージン・レコード)
- Sweet Revenge(1994年/フォーライフ・レコード、güt)
- Out Of Noise(2009年/Commons)
- async(2017年/Commons)
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