『ストレンジ・トマト』(2009年/ハミングキッチン)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー
『ストレンジトマト』(2009年)は、横浜出身のイシイモモコ(Vo)と逗子出身の真中やす(Gt/Key)からなる男女アコースティック・ユニット、ハミングキッチンが、細野晴臣主宰のレーベル「デイジーワールド・ディスク」よりリリースした初のメジャーアルバム。イシイモモコの柔らかなヴォーカルにのせて、日常の機微や郷愁を描く物語が展開され、彼らが育った湘南・横浜の風土が持つ開放感と多様性が、アルバム全体の穏やかでノスタルジックな音像を形作っている。
標準化されたスローライフを超える音響世界
現代において、スローライフという言葉はもはや一時的なブームを過ぎ去り、すっかり社会に定着したひとつのスタイルになっている。
雑誌『ソトコト』や『クウネル』が多くの人に愛読され、食の世界でローカルな伝統を見直すスローフード運動が広がったことからも、その浸透ぶりは明らかだ。
特に2000年代以降、社会を覆う閉塞感や、消費し続けることへの疲労感に対するささやかな抵抗として、「本当の豊かさとは何か」を静かに問い直す空気が、この流れを加速させた。
ただ、正直に告白してしまうと、この静かなブームに乗って世の中に溢れ返った、いわゆる「癒やし系」の音楽の多くは、どれも似たような顔をしていて、私の心の奥底を揺さぶるような深みを感じられず、あまり食指が動かなかったのである。
そんなモヤモヤとした風景のなかに、ハッとするほど質の高いアコースティック・サウンドを届けてくれたのが、横浜出身のイシイモモコ(Vo)と逗子出身の真中やす(Gt/Key)による男女ユニット、ハミングキッチンだった。
彼らの存在が世間に広く知られるきっかけとなったのは、犬童一心監督の映画『グーグーだって猫である』(2008年)の挿入歌「パノラマの丘」だろう。
漫画家・大島弓子が描く、静かで愛おしい日常の風景。その映画の音楽を担当した細野晴臣は、「都会のせわしない喧騒からふっと離れた、静かな生活の音」を丁寧に探し求めていた。
ハミングキッチンが鳴らす音は、そんな細野の美学と見事に共鳴した。そこにあったのは、巷に溢れるありきたりな「癒やし」とはまったく違う、凛とした精神性と、どこまでも澄み切った透明感だったのだ。
ノスタルジーと慈悲に満ちたソング・ブック
彼らが細野の主宰するレーベル「デイジーワールド・ディスク」から発表した初のメジャーアルバム『ストレンジトマト』(2009年)は、ハミングキッチンの音楽的な哲学が、最もピュアな形で瓶詰めされたような名作だ。
アルバム全体に漂っているのは、陽だまりのような「グッド・タイム・ミュージック」の空気感である。しかし、それはただ昔を懐かしむだけのものではない。
彼らの音の根っこには、1960年代後半から70年代前半にかけてのアメリカン・ルーツ・ミュージックへの深い愛情があり、そのサウンドは当時の牧歌的な幸福感と同時に、やがて訪れる時代の陰りさえもそっと内包している。
真中やすが描く音のパレットは、温かなフォークを軸にしながらも、ジャズ、ブルース、ボサノヴァ、そしてエキゾチカといったさまざまなジャンルの色彩を、驚くほどなめらかに繋ぎ合わせている。
それは「色んなジャンルを混ぜてみました」という安易なものではなく、それぞれの音が一番輝く場所を緻密に計算した、とても知的なアンサンブルなのだ。
ここでぜひ特筆しておきたいのが、細野の長年の盟友であり、日本のポップスにおけるリズムの基礎を築き上げた伝説的なドラマー、林立夫(ティン・パン・アレー)の参加である。
林が叩き出すドラムは、アコースティックで軽やかなハミングキッチンのサウンドに、揺るぎない歴史の深みと心地よいグルーヴを与えてくれた。彼が刻むリズムは、楽曲がいつの時代に聴かれても色褪せないための、静かで力強い重力となっている。
収録曲である「パノラマの丘」で、イシイモモコの歌声と静かな楽器たちが織りなす夢のような空間は、まるで心地よい風が通り抜けていくかのように透き通っている。それはまさに、細野が探求し続けてきたエキゾチカの、美しき現代版の提示だった。
そして、タイトル曲「ストレンジトマト」が纏う、中南米の海辺のカフェを思わせるような弾むリズム。これは彼らが、単なるふんわりとしたアコースティック・ユニットではなく、驚くほど多彩な音楽の引き出しを持つ、鋭いセンスの持ち主であることを静かに証明している。
そんな複雑で豊かな音の風景を、イシイモモコの少し鼻にかかったやわらかな歌声が、すべてを優しく包み込む。彼女はまるで、私たちの日常に寄り添ってくれる慈愛に満ちた語り部のように、言葉とメロディを紡いでいくのだ。
細野晴臣の音楽的哲学と湘南・横浜の風土が交差する点
ハミングキッチンという唯一無二の個性は、細野晴臣の研ぎ澄まされた音楽哲学と、彼らが生まれ育った湘南・横浜のゆるやかな風土が、奇跡的に交差する場所で育まれたと言っていい。
細野は、その長い音楽の旅のなかで、商業的なノイズからすっと距離を置き、「いつの時代も変わらない普遍的なアコースティック・サウンド」や「自然の空気をたっぷり含んだ音響環境」を作り出すことを大切にしてきた。
そんな彼が、ハミングキッチンを自身のレーベルに招き入れたという事実は、彼らの音楽が細野の愛する「余白の美学」を見事に受け継ぎ、時代に流されない良質なポップスの正統な後継者として、手放しで高く評価されたという証でもある。
細野という大きな傘の下で、彼らは「売るための音楽」という窮屈な制約から自由になり、自分たちが本当に信じるシンプルで手作りの音を、純粋に追い求めることができた。その恵まれた環境が、彼らのサウンドに独特の透明感と静けさを与え、私たちの心にスッと入り込む魔法の力を宿したのだ。
そして何より、彼らの故郷である湘南や横浜の風土が、この音楽を育むための豊かな土壌となっていることは間違いない。温暖な気候、すぐそばにある海と山。
湘南エリア特有の開かれた自然環境は、彼らの音楽の根底に流れるアコースティックな温もりや、肩の力の抜けたリラックスしたテンポ感にそのまま繋がっている。
この土地が持つ特有の「スローな時間」が、彼らの音楽のなかで心地よい“空気の揺らぎ”となり、聴く者の心を優しくほぐしてくれる。さらに、古くから国際貿易港としてさまざまな文化を迎え入れてきた横浜の歴史と、湘南独自のミックス・カルチャーが、彼らのボーダーレスな感性を育て上げた。
ブルースやジャズ、エキゾチカといった海の向こうの音楽を、まったく無理することなく自分たちのポップスへと昇華させてしまうあの魔法は、異文化を自然体で受け入れるこの街の空気をたっぷり吸い込んでいるからこそ生まれたものなのだ。
『ストレンジトマト』というアルバム。それは、細野晴臣という偉大な音楽家の哲学と、湘南・横浜が持つ「都会の洗練と、自然のおおらかさ」が溶け合った豊かな風土が、奇跡のようにもたらした美しい果実なのである。
参考文献・出典
- アーティスト/ハミングキッチン
- 発売年/2009
- レーベル/デイジーワールド・ディスク
- ジャンル/J-POP、フォーク
- プロデューサー/ハミングキッチン
- 1. Taxi Driver
- 2. 風のアトラス
- 3. オムレツムーン
- 4. さくらあめ
- 5. Bonjour Express
- 6. キッチンボイコット
- 7. アイスクリームベイビー
- 8. Daisy's Cafe
- 9. オルゴールの唄
- 10. BOY
- 11. 浪士不動
- 12. 蒼いカンバス
- 13. パノラマの丘[bonus track]
- ストレンジ・トマト(2009年)
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