2026/5/1

『ハイファイ新書』(2009)徹底解説|演出された無垢と打算の音楽

『ハイファイ新書』(2009年/相対性理論)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー

10段階評価
5
OKAY

概要

『ハイファイ新書』(2009年)は、バンド・相対性理論がリリースしたセカンドアルバム。やくしまるえつこをボーカルに迎え、前作『シフォン主義』とともにネット世代の支持を集めた。「バーモント・キッス」「さわやか会社員」「ふしぎデカルト」などを収録し、都市的な感覚と日常の断片が交錯する構成となっている。YMO以降の電子的サウンドとコピーライティング的言語感覚を組み合わせ、2000年代後半のJ-POPに新しい方向性を提示した。

受賞歴
  • 2010年CDショップ大賞:入賞
  • 2010年ミュージック・マガジン:年間ベスト・アルバム Jポップ/ポップ部門 第1位
目次

文系ポップの革命児

「相対性理論」。いかにも理系チックで、それでいてどこか人を食ったような奇妙なバンドの存在を初めて食らったのは、確か2008年の終わり頃だったはずだ。

当時のインターネットの音楽系ブログや、ミクシィのコミュニティ界隈では、今年のJ-POPシーンは中田ヤスタカのPerfumeと相対性理論だけでオッケー、みたいな極端すぎる言説が半ば本気でバズっていた。

当時まだ彼らの音を聴いていなかった僕は、そのスノビッシュで鼻持ちならないバンド名に「なんだそのナメた態度は?」と、少しばかりイラッとさせられたのがそもそものファーストコンタクトだった気がする。

しかし、2009年1月にセカンドアルバム『ハイファイ新書』がドロップされるやいなや、僕のそんな浅薄な偏見は跡形もなく木っ端微塵に粉砕されることになる。

前年に全国流通されたデビュー作のミニアルバム『シフォン主義』と共にiTunesランキングを完全制覇し、彼らは瞬く間にゼロ年代ネット世代のトップに君臨した。第1回CDショップ大賞をかっさらった『シフォン主義』の爆発的勢いそのままに、メインストリームのド真ん中へと一気に躍り出たのだ。

初めて彼らの音を浴びたときの衝撃はヤバかった。まるで低血圧の朝のようにひどくダルいのに、その奥底に妙な微熱がジワジワとこみ上げてくる、これまでに体験したことのない異次元の音楽だった。

ドラムの西浦謙助が叩き出すタイトなビートは軽やかにバウンドし、真部脩一のベースは的確に腰のツボを突き刺してくる。極限まで贅肉を削ぎ落としたミニマルなバンド・アンサンブルの上に、やくしまるえつこの、甘いのにどこか冷たく突き放したような声が静かに降り注いでくるのだ。

だが、その声は、従来のJ-POPシンガーが当たり前のように垂れ流していた「生身の感情」や「人間の息づかい」を確信犯的にブチ殺した、どこか機械的なバグを含んでいる。

感情を込めて「歌う」というよりも、プログラミングされたテキストを無表情で淡々と読み上げる発声マシーンのよう。そこにこそ、相対性理論というバンドの絶対不可侵なアイデンティティがある。

冷ややかで、どこまでも理知的なポップ。それは、聴く者に汗だくの熱狂を強要するのではなく、一歩引いた場所からの冷静な観察を強いる、極めて知的な凶器なのだ。

80年代的意匠とゼロ年代的距離

『ハイファイ新書』におけるサウンド・デザインは、1980年代の洗練されたシティポップやニューウェーヴのガワと、ゼロ年代特有のアキバ系・サブカルチャー的な空気感のあいだを、マジで恐るべき精度で精密にチューニングしている。

永井聖一が弾き出す、カッティング主体のソリッドでファンキーなギターのトーンや、真部のベースのハネ方には、YMO以降脈々と受け継がれてきた、ポップ・ミュージックにおける冷却装置の系譜がバッチリと刻み込まれている。

そして同時に、そのクールすぎるサウンドに乗っかる言語感覚は、完全にコピーライティング的であり、徹底的に人工構築されたフィクション感に満ちている。

ミックスのバランスも完全に狂っている。音域は極端に中域が整理され、生々しいバンド・サウンドでありながら、ベースとやくしまるえつこのヴォーカルだけが空間にポツンと浮遊しているかのように配置されているのだ。

残響の浅い、デッドな空間処理が、音とリスナーの距離感を一瞬でゼロ化し、結果として無機的な親密さとでも呼ぶべき奇妙な手触りを生み出している。

リスナーは、ライブハウスで汗だくの生演奏を聴いているというより、巨大なデータベースの中から整理された音源ファイルを検索して再生しているかのような、ヤバい錯覚に陥る。この完璧にコントロールされた人工の温度感こそが、相対性理論のサウンドの揺るぎない核なのだ。

彼らの言語感覚のキレ味は、歌詞の随所にブチ込まれたサンプリングに象徴されている。たとえば「フジカラーで写す 七不思議 ふしぎ」(『ふしぎデカルト』)というフレーズ。かつての富士フイルムの超有名テレビCMからのサンプリングだが、それは決して作り手の記憶から自然に滲み出た温かいノスタルジーなんかじゃない。

それは、あらかじめリスナーの脳内に懐かしさという感情を強制インストールするための、冷徹極まりないハッキングである。あるいは、「メガネは顔の一部じゃない」(『さわやか会社員』)にしてもそうだ。

東京メガネの往年の名コピーをわざわざ否定形でリサイクルすることで、80年代広告文化の象徴記号を一旦バラバラに解体し、ゼロ年代の文脈で強引に再構築してみせているのだ。

真部脩一が手がける歌詞は、一般的な起承転結のストーリーテリングを完全に拒絶し、短いフレーズの連なりで構成される“断片の詩学”を形成している。

そこに「意味」を積み上げてお涙頂戴の感動を呼ぶのではなく、言葉の「切断」と「接続」のバグによって、予測不可能な感情を錬金術のように生成していく。言葉が物語を語るための道具であることをやめ、言葉そのものが音符と同じように完全に「音楽化」されているのである。

「世界征服やめた」が示すゼロ年代の自我

わたしやめた 世界征服やめた(『バーモント・キッス』)

この強烈なパンチラインに象徴されるように、やくしまるえつこの声は、若者の“諦めの宣言”すらも、恐ろしくキュートなデータへと変換してしまう。

世界征服を夢見るのではなく、それをサクッとやめること。この脱力しきったスタンスこそが、右肩上がりの経済成長なんてもはや信じられなくなったゼロ年代的自我のあり方を、これ以上ないほど的確に撃ち抜いている。

能動ではなく放棄、正面からのガチンコ勝負ではなくスマートな回避。だがそれは決して悲惨な敗北なんかじゃない。狂騒する世界からスッと一歩降りた場所で観察する側に回るという、彼らなりの超したたかな美学なのだ。

相対性理論の音楽を語る際、メディアはしばしば「不思議」だの「脱力」だの「キッチュ」だのといった安直な言葉でお茶を濁す。しかし、彼らが提示するその脱力は、決して天然の偶然なんかじゃない。彼らの構築する音楽は、極めて知的で、緻密に計算し尽くされた冷徹な戦略の上に立脚している。

やくしまるえつこの無機質で記号的な声が“感情の欠如”を装うのは、感情がないからではなく、リスナーの内側に感情を逆説的に爆誕させるための高度なトラップなのだ。

音楽的には、ブラックミュージックやファンク、ニューウェーヴのガチガチの構造を骨格に敷きつつ、そこに一見アンバランスな女子的言語感覚をトッピングすることで、旧来の男性的でマッチョなロック構造に対する鮮やかな劇薬として機能させているのである。

初音ミク以降のアーキテクチャ

彼らが結成当初からメディアへの露出を極端に嫌い、顔写真すらまともに公開しなかったのも、その計算された匿名性を鉄壁のディフェンスで守り抜くためだろう。

やくしまるえつこの顔を持たない匿名性は、メディアが勝手に「女性ヴォーカル像」を規定し、安易に消費しようとするクソみたいな構造に対する、静かで強力なカウンターでもある。

顔を隠し、声だけを純粋なデータとして晒すことで、彼女は見られる対象としての女性から、純粋に音を聴かせる主体へと軽やかにワープする。沈黙や不可視性を武器として戦略化したその態度は、ゼロ年代以降のフェミニズム的ポップの先駆として、もっとバチバチに評価されるべきだ。

また、『ハイファイ新書』が投下された2009年前後という時代背景も絶対に無視できない。それは、ボーカロイド「初音ミク」が爆発的なムーブメントを巻き起こし、ニコニコ動画などのプラットフォームを通じて、合成音声がポップ・ミュージックの主導権を人間のアーティストから奪い始めた、歴史的な特異点だった。

やくしまるえつこの、あえて感情を殺したフラットなヴォーカルは、その抗いようのないデジタル化のビッグウェーブを、もう一度人間の身体の側へと強引にハッキングして取り戻そうとする試みのようにも思える。機械に極限まで寄せた声で歌うことで、逆に「人間らしさとは一体何なのか?」を鋭く世界に問い直しているのだ。

彼らの音楽には、80年代バブル期の軽薄さと、ゼロ年代の自閉的な自意識、そしてのちに2010年代以降の主流となるポスト・インディペンデント感覚が、ミルフィーユのようにドロドロに混ざり合っている。一見すると俗っぽく見える要素も、すべては偶発的なものではなく、理知的な再演なのだ。

過去のポップ・カルチャーの膨大なアーカイブから巧妙に要素をサンプリングし、意味よりも雰囲気や記号を優先する。そこに漂うのは、情報過多で飽和しきった社会における、感情の再構築実験としてのポップスである。

だからこそ、相対性理論の音楽には、どれだけ無垢を装っても「狙ってる感」が常に背後にチラつく。だが、その打算的なあざとさすらも、彼らの巨大な作品構造の重要なピースなのだ。感情を精巧にコピーし、無垢を意図的に演出し、軽薄さを高度な理論へと昇華させる。

『ハイファイ新書』は、既存のJ-POPの構造を自己言及的に書き換えてみせた冷たいポップの論文であり、文字通り、日本の音楽シーンにおける新しすぎる教科書だった。

彼らが叩きつけたこの理知的な革命の余波は、現在もなお、多くのアーティストたちのDNAに深く組み込まれ、静かに、しかし確実に脈打ち続けている。

アルバム情報
プレイリスト
  1. 1. テレ東
  2. 2. 地獄先生
  3. 3. ふしぎデカルト
  4. 4. 四角革命
  5. 5. 品川ナンバー
  6. 6. 学級崩壊
  7. 7. さわやか会社員
  8. 8. ルネサンス
  9. 9. バーモント・キス
相対性理論 アルバムレビュー