ケミカル・ブラザーズ『Surrender』──音響権力の譲渡とメロディの地平
『Surrender』(1999年)は、ケミカル・ブラザーズ(Chemical Brothers)が、前作『Dig Your Own Hole』発表後の1999年にリリースした3枚目のスタジオアルバム。ダンスミュージックの構造を維持しつつ、オアシスのノエル・ギャラガー、ニュー・オーダーのバーナード・サムナー、マジー・スターのホープ・サンドヴァル、マーキュリー・レヴのジョナサン・ドナヒューといった多様なジャンルのヴォーカリストをゲストに迎えた。強力なブレイクビーツが鳴り響く「Hey Boy Hey Girl」、サイケデリックなロック要素が融合した「Let Forever Be」、そして浮遊感のあるメロディを持つ「Asleep From Day」など、多岐にわたる楽曲が収録された。
音響構造からの離脱と「降伏」の哲学
常々、考えていた。(Chemical Brothers)の3rdアルバム『Surrender』(1999年)のタイトルはどういう意味なのだろう、と。だって、Surrender=「降参する」、「放棄する」って何だかヘンじゃないですか。
そしたら、We Rave Youというサイトの2024年インタビューで、トム・ローランズが「僕たちは『Dig Your Own Hole』で何かを追い求めていて、それを手に入れた。だから『Surrender』では、もっとコラボレーションを重視した作品にしようと、物事を“開放”することにしたんだ」と語っていた。
なるほど、Surrenderは「降参する」じゃなくて「身を任せる」と捉えるべきなのか。確かに『Dig Your Own Hole』(1995年)でビッグ・ビートを極めたあと、固定されたスタイルから解き放たれ、より自由に音楽を創作するという流れはとても自然なことだ。
『Dig Your Own Hole』が、強靭なベースライン、反復するサイケデリックなループ、そして破壊的なブレイクビーツを駆使し、ビッグ・ビートというジャンルの定型を極限まで押し広げたのに対し、『Surrender』は、その定型からの意図的な離脱を試みている。
エド・シモンズが、ビッグ・ビートが「真の意味でダンスミュージックに熱心でない人々の間で、より受け入れやすいダンスミュージックの形態として見られていることは好きじゃない」と発言した背景には、彼らの築いた音響構造が、安易なフォロワーと商業的な消費によって矮小化されることへの切実な警戒心があったはず。
彼らは、自らが確立したスタイルが創造性の障壁となることを拒否し、より広範な創造性の地平へ身を委ねる(Surrender)ことを選んだ。この選択は、単なる作風の変化ではなく、商業的成功後の自己批判であり、ジャンルそのものの解体と再構築を試みる、芸術的かつ知的な姿勢の表明だったのだろう。
その結果、アルバムは強力なリズム構造を保持しつつも、メロディアスで柔らかなテクスチャを持つ楽曲が著しく増加し、彼らの音楽の叙情性という新たな側面が前景化することになる。
固定されたスタイルから解き放たれ、より自由に音楽を創作するというこの流れは、当時のシーンにおいて極めて自然かつ必然的なものだったのだ。
リズム権力の分散とヴォーカルという化学反応
『Surrender』の構造的特徴は、ビッグ・ビートの核であるリズムの絶対的権力を、メロディとヴォーカルという外部の叙情的な力に分散させた点にある。
このアルバムにおいて、ヴォーカリストが単なるアクセントではなく、楽曲の感情的、構造的な柱として配置されたことは、ケミカル・ブラザーズのディスコグラフィにおける決定的な転換だった。
オアシスのノエル・ギャラガー、ニュー・オーダーのバーナード・サムナー、マジー・スターのホープ・サンドヴァル、マーキュリー・レヴのジョナサン・ドナヒュー。
この多士済々の面々こそが、ケミカル・ブラザーズの音楽に文字通りの「化学反応」(Chemical Reaction)を引き起こし、新たな地平を開いた。
ノエル・ギャラガーをフィーチャーしたM-5「Let Forever Be」は、サンプリングとループ構造を用いながらも、ビートルズの「Tomorrow Never Knows」が持つサイケデリック・ロックの構造を大胆に借用し、ダンスミュージックの文脈からロックの巨大な記憶を呼び起こす。
これは、ビッグ・ビートの定型からの鮮やかな逸脱であると同時に、ロックとダンスミュージックの歴史的な断層を埋める試みだったと言えるだろう。
力強いビートとキャッチーなフレーズが印象的なダンスアンセムM-9「Hey Boy Hey Girl」がバウンシーなダンストラックの典型を示す一方で、バーナード・サムナーが参加したM-3「Out Of Control」は、ニュー・オーダー特有の抑制された憂鬱なメロディが、そのエネルギーに内的な影を与えている。
そして、ホープ・サンドヴァルを迎えたM-7「Asleep From Day」は、従来のケミカル・ブラザーズの音響からは想像し得なかった、浮遊感のあるドリームポップ。リズムを抑制しテクスチャと残響を重視することで、彼らの音楽が持つ静謐な側面を前景化させた。
このヴォーカルという外部性への積極的な「Surrender」は、ケミカル・ブラザーズの音響空間を、身体的な運動性から感情的な内省へと拡張させた。
メロディの拡張と多層的な記憶の風景
『Surrender』が達成した最大の成果は、彼らの音楽に多層的な記憶の風景を植え付けたこと。
アルバム全体の進行は、ブレイクビーツの巨大なエネルギーを維持しつつ、それをノエル・ギャラガーのサイケデリックな憂鬱、バーナード・サムナーのポストパンク的な孤独、ホープ・サンドヴァルのドリームポップ的な酩酊感といった外部の叙情的な力によって変調させ、解体していく過程を描いている。
この結果、アルバムは、単なるダンスフロアの興奮を提供するだけでなく、リスナーの内的な時間と対峙する契機を与えた。何よりも特筆すべきは、ラストに収録された隠しトラックの「Dream On」。
このトラックは、ほとんどインディフォークのようなミニマルな構造を持ち、それまでのアルバムの音響的な奔流を静かに収束させる。この静かな結末は、『Surrender』という作品が、ビッグ・ビートという轟音の頂点を経験した後に到達した、「静寂への回帰」、あるいは「内面への降伏」という構造を象徴している。
「Dream On」なんて、ほとんどインディフォークみたいな質感なのに、彼らの懐の深さには恐れ入るばかり。ケミカル・ブラザーズは、固定されたスタイルに固執することを拒否し、外部の創造性に対して身を委ねることで、彼ら自身の音楽をジャンルと時代の枠組みから解き放った。
この「Surrender」は、自己の限界を認め、多様な音楽的要素を取り込むという知的な開放性によって、彼らのディスコグラフィにおける最も自由で、最も詩的な瞬間を現出させたのである。
さすが懐が深いぜ、化学兄弟!
- アーティスト/ケミカル・ブラザーズ
- 発売年/1999年
- レーベル/Freestyle Dust
- Music:Response
- Under the Influence
- Out of Control (feat. バーナード・サムナー)
- Orange Wedge
- Let Forever Be (feat. ノエル・ギャラガー)
- The Sunshine Underground
- Asleep from Day (feat. ホープ・サンドヴァル)
- Got Glint?
- Hey Boy Hey Girl
- Surrender (feat. ジョナサン・ドナヒュー)
- Dream On
