2025/9/9

う       た/灰野敬二、蓮沼執太

『う       た』──灰野敬二と蓮沼執太、声と電子音がぶつかる実験的コラボレーション

『う       た』(2025年)は、灰野敬二の肉体的な発声と、蓮沼執太の透明な電子音が交錯する実験音楽作品。音と沈黙の呼応、咳払いや囁きまでを素材化した即興の連なりが、聴取者の中に“歌とは何か”という問いを投げかける。

灰野敬二、蓮沼執太の音楽的変遷

灰野敬二と蓮沼執太によるコラボアルバム『う       た』(2025年)はーー「う」と「た」の間にどのくらいの余白が必要なのかはよく分からないのだがーーその挑発的な表記と音響構造により、日本の実験音楽史において特異な位置を占めるだろう。それくらいこの作品はヤバい。本当にヤヴァい。

灰野敬二といえば、1970年代後半から活動を開始し、日本のフリー・インプロヴィゼーションおよびノイズ・ミュージックの代表的存在として知られる、超アバンギャルド・ミュージシャン。

1980年代に結成された 不失者はその象徴的活動であり、『Pathetique』(1989年)、『A Death Never To Be Complete』(1997年)などのアルバムでは、長大なギター・ドローンと圧倒的な音圧によって、音楽という形式自体を揺さぶってみせた。

また、ソロ作品においては声の極限的探求を行い、『Watashi Dake?』(1981年) では言語を解体した発声を全面化し、そのヴォイスを純粋な音響素材として扱っている。この「声=意味」から「声=音響」への転換は、彼の活動で一貫するテーマだ。

灰野の活動は常に「身体性」と結びついてきた。即興演奏における咆哮や絶叫は、言語的意味を超えて、聴取者に身体的衝撃を与える(田中泯と一緒にヨーロッパ公演を行ったくらいだ)。彼の音楽は楽曲性や調和よりも、その瞬間に発生する音響を最大化してしまう。灰野にとって「歌」は旋律や詞をもたらすものではなく、むしろ破壊されるべき対象なのだ。

一方1983年生まれの蓮沼執太は、2000年代以降、電子音楽、ポップ、現代音楽をクロスオーヴァーさせながら活動を展開してきた。初期のソロ作『POP OOGA』(2006年)や『CC OO』(2010年)では、サンプルとシンセサイザーを用いながら、軽やかで透明感のある音響を提示。

そのサウンドは灰野のような圧倒的暴力性ではなく、余白や繊細さ、時間の流れの中に漂う「軽やかさ」として特徴づけられる。

CC OO
蓮沼執太

さらに、Shuta Hasunuma Philharmonic Orchestraとしての活動では、『Mannan』(2016年)などでオーケストラ的な編成を駆使し、クラシックとポップを架橋する大規模な音響実験を行ってきた。

そこでは、構造性、反復、そして聴きやすさと実験性の両立が試みられている。蓮沼にとって「歌」とは、ポップ的親和性を前提にしながらも、その枠組みを拡張する対象なのだ。

声と電子音の相互作用

通常「歌」と表記されるべきものを、広大な空白を挟んで「う       た」と表記する点に、おそらく本作の意図が象徴されている。それが意味するものとは、言葉の欠如、旋律の断絶、沈黙の余白といったところか。

同時に、灰野が提示してきた声の破壊や、蓮沼が重視してきた余白の美学を示唆するものかもしれない。すなわち本作は、「歌」をめぐる両者の実践を視覚的にも解体した上で、再び構築する企図を孕んでいるのだ。

本作において最も顕著なのは、声と電子音の相互作用。灰野の声は、言語を超えて呻き、咆哮、囁きと変幻する。時にプリミティブな呪術性を帯び、時に人間の呼吸そのもののように響く。

これに対し蓮沼による音響は、ピアノの単音の持続、シンセサイザーの残響、あるいは電子処理による空間化によって、声の周囲に透明な環境を生成する。

断続的な囁き。ピアノの断片的なフレーズ。両者は完全な同期を避け、緊張を孕んだ「すれ違い」の関係を維持する。この不一致が、聴取者に「これは歌なのか、それとも歌ではないのか?」という問いを突きつけていく。

サウンドの質感として特筆すべきは、密度の変化だろう。灰野の声が最大限の強度を発する瞬間に、蓮沼の音響はむしろ引き算的に余白を生み出す。逆に声が沈黙に近づくとき、電子音が空間を満たしていく。この相互補完性は、灰野の過去の苛烈なノイズ作品や、蓮沼のオーケストラ的レイヤーとは異なる、新しい形式のバランスを実現している。

だが、時折両者が暴力的に衝突することもある。例えば、一曲目の「空」。いきなり灰野敬二の咳払いスタートで、「上空から…ウン…ばらまかれる…バラバラになった私は…」と、ポエトリー・リーディングのような歌い出しでも咳払い。

最初は蓮沼のサウンドもそれを優しく受け止めているが、突然音が割れんとばかりに低音を最大出力させて、バイオレントなサウンドスケープを広げてみせる。予断不能な音響空間。M-2「休」でも、突然モールス信号のような、点描のような短音が繰り返しリフレインされ、リスナーの神経を掻き乱す。

即興性と構造性の対位法

灰野の即興性、蓮沼の構造性というアンビバレンス。灰野は瞬間ごとに発声を変化させるが、その変化を受け止める蓮沼の音響は、あらかじめ設計された構造的パターンを展開する。即興と作曲、偶然と秩序という二項対立を超えた実践。どちらか一方に偏ることなく、両義的な「揺らぎ」が持続する。

灰野の実践は1970年代以降の即興/ノイズ文化の第一世代を代表し、蓮沼は21世紀以降のポスト・ポップ/実験音楽の代表的存在。両者がコラボすることは、日本の実験音楽の歴史における「断絶」と「連続」を同時に提示するものだ。

『う       た』は、「歌」という最も古典的な音楽概念を根底から揺さぶる。灰野敬二が40年以上にわたって培ってきた声と身体の極限的実践と、蓮沼執太が展開してきた構造的かつ透明な音響世界が交錯することで、歌は意味や旋律を超えた「音響現象」として提示される。本作の核心は、声と音、即興と構造、世代と世代の「間」に生まれる未決定性にあるのだ。

タイトルに刻まれた空白が示すように、そこには「歌」と「非歌」を分け隔てる境界を超えた、新しい表現の可能性が開かれている。結論:この作品はヤバい。本当にヤヴァい。

DATA
  • アーティスト/灰野敬二、蓮沼執太
  • 発売年/2025年
  • レーベル/UNIVERSAL D
PLAY LIST
  1. 溢れ出る微笑みの雫たちがおりてくる