今や、“ハリウッドで最も才能あるシナリオライター”としての座を確立した、チャーリー・カウフマン。だが正直言うと、スパイク・ジョーンズと組んだ彼の代表作『マルコヴィッチの穴』はあまり好きになれなかった。
1分先、3分先の展開がまったく読めないストーリーラインを形成してはいたものの、ハリウッドの定型的な物語から逸脱しようとするあまりに骨太なドライヴ感・安定感に欠け、細部が全体を規定するほどの骨格を持ち得ていなかったように思う。
『エターナル・サンシャイン』は、『ヒューマン・ネイチュア』で一度タッグを組んだことがあるミシェル・ゴンドリーが監督を担当。
音楽のリズムが列車の窓から覗く風景と同期するChemical Brothersの『Star Guitar』、時系列が真逆の映像をスプリットに割って並列で見せるCibo Mattoの『Sugar Water』、レゴによるストップモーション・ アニメーションが斬新なWhite Stripesの『Fell In Love With A Girl』。
ゴンドリーといえば、奇抜な発想を華麗な手つきで映像化してきた、PV界のカリスマ。しかし劇場用映画では、2時間という尺のなかで物語を咀嚼しきれず、アイディア先行に留まっていた。
っていう訳で『エターナル・サンシャイン』もあまり食指が動かず、主演を務めるジム・キャリー、ケイト・ウィンスレットの二人も好きじゃないんで、公開後もしばらくスルーしていたんだが、たまたまTVで放送していたのを思わず観てしまった次第。
意外なことに、確かにこの作品でもハリウッドの定型から逸脱しようという意思は感じられるものの、「愛し合う二人が試練に打ち勝って結ばれる」というラブストーリーの骨格は(基本的には)崩していない。
「幸せは汚れなき心に宿る。俗世を忘れ去ること。純白な心の永遠の輝き。無垢な祈りは聞き届けられる」
原題の『Eternal Sunshine of the Spotless Mind』は、アレクサンダー・ポープの格言から引用されているんだが、間違いなくミシェル・ゴンドリー&チャーリー・カウフマンのコンビは、こんなイノセンスなんぞ信じちゃいない。
汚れなき心の持ち主にも不幸は押し寄せるだろうし、神様に無垢な祈りが聞き届けられる可能性なんて、限りなくゼロだ。
しかし、おそらくハリウッドで最もオルタネイティヴなマインドを持ったこの二人は、こんな格言が素直に信じられてしまうほどの、ビックリするくらいピュアなラブストーリーにチャレンジしているんである。
その戦略はいささかSF的。ジム・キャリーは恋人のケイト・ウィンスレットが超ハイテクなクリニックによって自分の存在を記憶から消してしまったことにフンガイし、失恋の痛手を癒すため、自らも彼女の存在を記憶から抹消しようとする。
しかし薄れつつある“彼女との思い出”のなかで、いかに自分がケイト・ウィンスレットを愛していたかを思い知り、己の記憶のなかで“反乱”を起こす。記憶操作というSF的な意匠のなかで、極めて古典的な恋愛劇が描かれるのである。
しかし、ミシェル・ゴンドリー&チャーリー・カウフマンのコンビは安易に物語をハッピーエンドに収束させたりはしない。やっとの思いで結ばれた二人にもやがて倦怠期が訪れ、再び別れるハメになるであろうことを、ラストシーンで提示してみせる。
確かに彼ららしいといえば彼ららしいのだが、個人的にはちょっと不満なり。
例えば、マイク・ニコルズの『卒業』がモニュメンタルな作品に成り得たのは、教会で花嫁を強奪したダスティン・ホフマン無償の愛が、永遠に続くことはないことをラストショットで示唆したから。
それは、アメリカン・ニュー・シネマのアナーキーな時代性とリンクしていた。だが『エターナル・サンシャイン』では、単なる脱ハリウッド的定型話法として作動している。
アイロニカルな視線は、オプティミズムが実社会を覆い尽くす現代において、単なる現実の照射にしか過ぎない。それはすでに70年代で終焉しているはずではないか?
- 原題/Eternal Sunshine of the Spotless Mind
- 製作年/2004年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/107分
- 監督/ミシェル・ゴンドリー
- 脚本/チャーリー・カウフマン
- 原案/チャーリー・カウフマン、ミシェル・ゴンドリー、ピエール・ビスマス
- 製作/スティーヴ・ゴリン、アンソニー・ブレグマン
- 撮影/エレン・クラス
- 美術/ダン・リー
- 編集/ヴァルディス・オスカードゥティル
- 音楽/ジョン・ブライオン
- ジム・キャリー
- ケイト・ウィンスレット
- キルステン・ダンスト
- マーク・ラファロ
- イライジャ・ウッド
- トム・ウィルキンソン
- ジェーン・アダムス
- デヴィッド・クロス
最近のコメント