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かくかくしかじか/東村アキコ

『かくかくしかじか』──笑いと涙の東村アキコ流「まんが道」

『かくかくしかじか』(2011年)は、漫画家・東村アキコが自らの修業時代を振り返る自伝的作品である。高校時代の厳しいデッサン修業、美大での停滞、そして師との出会いと別れ。笑いと涙の往復の中で、芸術家としての自我が形成されていく。師弟関係と創作の苦悩が交錯する物語は、単なる成功譚ではなく、人間的成長の記録として描かれている。

芸術家の成長譚

東村アキコの『かくかくしかじか』は、漫画家自身が自らの修業時代を振り返る自伝的作品である。

自伝漫画は、日本マンガ史の中でも独特の系譜を持つ。藤子不二雄Aによる『まんが道』(1970年〜)はその古典的代表例。漫画家を志す若者の純粋な情熱と友情をノスタルジックに描き、戦後のマンガ文化形成と共鳴した。

一方で山口つばさの『ブルーピリオド』(2017年〜)は、美大受験を舞台に「自己表現とは何か」「才能とは何か」といった現代的な問いを突き付け、青春のリアリズムをシリアスに描いた。

『かくかくしかじか』は、この二作を架橋するかのように、懐古と現代性を同時に孕む作品として成立している。すなわち、東村アキコ版「まんが道」は、笑いと涙の往復運動を通じて、芸術家の成長譚を再定義するのである。

成長譚のリアリティと「停滞」の意味

『まんが道』の主人公たちは、友情と努力によって漫画家への道を邁進する。その語りはストレートで、情熱を持ち続けることの尊さを称揚する。一方、『ブルーピリオド』は、自己嫌悪や不安、社会的な評価軸といった現代的問題を真正面から描き、芸術家としての生の困難さを突きつける。

『かくかくしかじか』の特異性は、その中間に位置する「停滞」を描き出す点にある。高校時代はスパルタ教育の下で猛烈にデッサンを描き続けるが、美大に進学すると一転して創作から遠ざかり、モラトリアム的な時間に沈む。

この「描けない時間」は、『まんが道』には存在しなかったものだ。さらに『ブルーピリオド』のように「悩みながらも描き続ける」のでもなく、完全に空白化してしまう。だが、社会人になって三足の草鞋生活を始めたとき、突如として爆発的に描き始める。

ここには「人間は追い詰められて初めて本気を出す」という、きわめてリアルな心理の再現がある。芸術家の成長譚に「停滞」と「爆発的覚醒」を導入した点で、『かくかくしかじか』は従来の“努力と継続”の物語を相対化している。

語り口のユーモアと「死の影」

『まんが道』は基本的に牧歌的で明朗なトーンを維持し、死や別れといった不可逆的な出来事はほとんど描かれない。『ブルーピリオド』では、葛藤や挫折はリアリスティックに描かれるが、死の影は物語の中心には据えられていない。

それに対し『かくかくしかじか』は、超絶ハイテンションなギャグを繰り出す一方で、物語のクライマックスに「師の死」を据えている。読者は「彼氏あいたーい!」「集英社のパーリー!」といった突拍子もないセリフで爆笑した直後に、病床の日高健三と向き合わされる。

この笑いと死の落差は、人生そのものの二重性を象徴しており、従来の“成長物語”に対して異質な批評性を帯びる。

学術的にいえば、ここには「喜劇と悲劇の交錯」という古典的な美学の構造が読み取れる。アリストテレス的な悲劇の「カタルシス」は、東村アキコのギャグによって相対化され、読者は泣きながら笑い、笑いながら泣くという二重の感情体験へと誘導される。

人間関係の温もりと芸術家の孤独

『まんが道』では、友情が漫画家への道を切り拓く原動力となる。『ブルーピリオド』では、同世代のライバルとの比較や社会的承認が主人公を駆り立てる。『かくかくしかじか』の場合、軸となるのは師弟関係である。

竹刀を振りかざしながらも愛情を注ぐ日高健三。突拍子もない言動で場を和ませる石田拓実。優しい美術部顧問や友人たち。彼らの存在が主人公を包み込み、芸術家としての孤独を相対化する。

だが、その中心にあった師がやがて失われることで、主人公は究極の孤独と向き合うことになる。この「関係性の温もりと喪失」が、『かくかくしかじか』を単なる笑いの漫画から昇華させている。

東村アキコ版「まんが道」の革新性

総じて、『かくかくしかじか』は『まんが道』的な「努力と友情の成功物語」と『ブルーピリオド』的な「現代的自己探求」の中間に立ちつつ、それらを笑いと涙で撹拌することにより、独自の「第三のまんが道」を切り拓く。

美大時代の「描けない時間」を描くことで、成長物語の線形性を相対化。コメディ的表現と師の死を対置することいよる、読者への二重の感情体験。語り手としての東村自身が物語を撹乱する、作者によるメタ介入。

これらは、従来の“漫画家修業譚”が持っていた牧歌性や直線的な成功譚を脱構築し、より複雑で人間的な芸術家の姿を提示するものなのだ。

DATA
  • 著者/東村アキコ
  • 発表年/2012年〜2015年
  • 出版社/集英社