『BALLAD 名もなき恋のうた』(2009年/山崎貴)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『BALLAD 名もなき恋のうた』(2009年)は、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』(2002年)を原案に、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズの山崎貴監督が実写映画化した、抒情的な時代劇ロマン。戦国時代、小国・春日を守る鬼の又兵衛こと井尻又兵衛(草彅剛)と、彼が密かに想いを寄せる美しき廉姫(新垣結衣)の、身分に阻まれた恋。現代からタイムスリップしてきた少年・川上真一(武井証)が又兵衛と出会うことで、又兵衛は自らの愛と誇りに目覚めていく。
「クレしん」を「ラスト・サムライ」で上書きする無謀
何でも『BALLAD 名もなき恋のうた』(2009年)は、山崎貴監督が『ラスト・サムライ』(2003年)のロケ現場を見学したことに端を発するらしい。
エドワード・ズウィック監督が指揮するハリウッドの現場、その圧倒的な物量と熱量、そして日本の風景の中に再現された本物の戦国を目の当たりにし、彼の中に強烈な渇望が生まれた。「日本のVFX技術とスタッフでも、これだけの時代劇が撮れるはずだ!」と。
その志自体は素晴らしい。日本のエンターテインメントが世界基準を目指す、その気概には拍手を送りたい。しかし、まさかその本格時代劇への挑戦の出典を、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』(2002年)に求めるとは思わなんだ。
原恵一監督によるアニメ版が映画史に残る大傑作たり得たのは、それが「アニメーション」という虚構の器を持っていたから。5歳の幼稚園児が戦場を駆け回るという、絶対的な絵の嘘が許容される土壌の上で、徹底してシリアスな歴史考証と、死と隣り合わせの人間ドラマを展開。
その極端なギャップこそが、観客の胸を激しく打ったのである。いわば、最強の「緩和」があるからこそ、最大の「緊張」が機能したのだ。
しかし、実写へのにおいて、この奇跡のバランスはあっけなく崩壊する。アニメなら笑って許容されたご都合主義的な設定は、生身の人間が演じる実写映像のリアリティラインに乗せられた瞬間、隠しようのない脚本のアラとして噴出してしまう。
タイムスリップしてきた現代の少年・真一(武井証)と、戦国武将・井尻又兵衛(草なぎ剛)の交流も、実写特有の生々しさがノイズとなり、観客の没入感を決定的に阻害する。
メディア変換における解像度の不一致。これこそが、本作がつまずいた最初の、そして最大の石ころなのだ。
血の流れない戦場に潜むリアリティの欠落
僕が最も声を大にして言いたいのは、本作が掲げた「本格時代劇」という看板の偽装表示疑惑についてだ。特に、クライマックスの合戦シーンである。
スクリーンに映し出されるのは、おもいっきり『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』(2002年)のヘルム峡谷を意識したであろう、春日城攻防戦のシークエンス。城壁を埋め尽くす敵兵、飛び交う火矢、轟く攻城兵器。カット割りや構図の端々に、ピーター・ジャクソンへのリスペクト(という名の模倣)が見て取れる。VFXのクオリティも、当時の邦画水準を確かに超えている。
だが、決定的にスケール感がない!!!!!!!!!!
守る春日城と、攻め寄せる大倉軍との距離が、あまりにも近すぎるのだ。ピーター・ジャクソンがニュージーランドの広大な大地を使って表現した、あの絶望的なまでの距離感と敵の質量が、ここにはない。まるで地方の市民ホールの舞台セットを見ているような、箱庭的な狭苦しさ。製作費20億円という破格の巨費を投じたはずが、画面からはそのリッチさが伝わってこない。これは予算の問題というより、完全に「空間演出のセンス」の問題である。
さらに興醒めなのが、長槍部隊同士が叩き合うシーンだ。槍で突くのではなく、上から叩いて敵を無力化するという戦法は、当時の史実に極めて忠実らしい。そのリサーチ精神は買おう。だが、「史実のリアル」がそのまま「映画的な興奮」として機能するかは全くの別問題だ。
画面の中で展開されるのは、大の大人たちが長い棒でペチペチと叩き合う奇妙な光景。しかも、山崎監督はこれを長回しのワンカットで見せてしまう。動的なモンタージュで迫力を演出するのではなく、あえての長回し。その結果、アクションのキレの悪さやエキストラの動きの緩慢さが白日の下に晒され、まるで「お遊戯ごっこ」を見せられているような気恥ずかしさがこみ上げてくる。リアルを追求した結果、映画的なスリルが死んでしまうという本末転倒な事態だ。
香川京子や油井昌由樹といった、往年の黒澤明映画を知る名優たちをキャスティングした点にも、監督の黒澤映画への憧れが透けて見える。しかし、彼らの重厚な存在感も、このテレビドラマ的な平坦なルックの中では浮いてしまっている。黒澤明が『乱』や『影武者』で描いたような、画面からむせ返るような血と土の匂いが漂ってくる緊張感は、ここには微塵もない。
いい人は映画監督に向かないのか?──優しさが殺した戦国の業
結局のところ、この映画の最大の欠点は、山崎貴監督自身の資質そのものにあるのではないか。
インタビュー映像やメイキングを見る限り、山崎監督は実に実直で、真面目で、スタッフ想いのナイスガイだ。VFXマン出身らしい緻密な計算と、少年のような夢を持ち続ける愛すべき人物なのだろう。
だが、極めて個人的見解を述べさせてもらうなら、そのいい人すぎる性格こそが、とりわけ戦場を描く監督としては致命的な欠陥になっている。
もしあの映画監督がゴジラを撮ったらどうなるか?という仮定のシミュレーションにおいて、山崎貴の作家性を分析したとき、彼は長らく「破壊の恐怖」よりも「人間の善意」を信じすぎるきらいがあった。
『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズに通底する圧倒的な甘さと優しさは、ハートウォーミングな物語では無類の武器になる。しかし、人が殺し合う戦国時代を描く段になっても、彼はその甘さを捨てきれなかったのだ。
『BALLAD』の戦場には、痛覚がない。兵士が斬られても、矢が刺さっても、そこには死の悲惨さが伴わない。ディズニー映画以上にクリーンで、衛生的な戦場。
僕は単に「血のりの量が足りん!」とゴア表現を求めているわけではない。演出の端々に、「残酷なものを直視したくない」「観客を不快にさせたくない」という、監督の無意識のブレーキが強烈にかかっているように見えるのだ。
井尻又兵衛と廉姫(新垣結衣)の悲恋もそうだ。草なぎ剛は、その無骨な佇まいと哀愁漂う背中で、見事に武士の孤独を体現していた。彼の芝居は文句なしに素晴らしい。
だが、脚本と演出が、彼を悲劇のヒーローとして美しく散らせることばかりに腐心しており、彼が生きた時代の泥臭さや、人を斬ることのカルマを描ききれていない。だから、ラストの感動もどこか上滑りしてしまう。
「戦争は悲惨だ」と台詞で言わせるのは簡単だ。だが、映画監督ならば、その悲惨さを映像で、生理的な嫌悪感として観客の眼球に突きつける義務がある。
『プライベート・ライアン』(1998年)でスティーヴン・スピルバーグがやったように、あるいは『野火』(2014年)で塚本晋也がやったように。
観客が思わず目を背けたくなるような、阿鼻叫喚の地獄絵図を描いてこそ、平和への希求が真の説得力を持つのだ。時代劇の戦場で全く血が流れないなんて、どう考えても欺瞞でしかないだろ!
参考文献・出典
- 監督/山崎貴
- 脚本/山崎貴、水島努
- 製作/安藤親広、松井俊之
- 製作総指揮/阿部秀司、梅澤道彦
- 制作会社/ROBOT、白組、東宝
- 撮影/柴崎幸三
- 音楽/佐藤直紀
- 編集/宮島竜治
- 美術/上條安里
- 衣装/福田明、黒澤和子
- 録音/鶴巻仁
- ALWAYS 三丁目の夕日(2005年/日本)
- ALWAYS 続・三丁目の夕日(2007年/日本)
- BALLAD 名もなき恋のうた(2009年/日本)
- SPACE BATTLESHIP ヤマト(2010年/日本)
- ゴジラ-1.0(2023年/日本)
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