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どですかでん/黒澤明

『どですかでん』──スラムの幻想と映画の終焉

『どですかでん』(1970年)は、黒澤明が初めて手掛けたカラー作品であり、崩壊と再生を描く“自己治療の映画”である。スラムに生きる人々の幻想と孤独を、鮮烈な色彩と詩的リズムで描き出し、現実を超える想像力の力を問う。

崩壊からの再生──孤独な巨匠の帰還

『どですかでん』(1970年)は、黒澤明が初めて手掛けたカラー作品であり、同時に「四騎の会」の記念すべき第1作でもあった。 だが、その誕生の背景には、監督史上もっとも暗い影が落ちている。

『トラ・トラ・トラ!』(1970年)の降板劇、『暴走機関車』企画の頓挫、そして自殺未遂──。かつて“映画の天皇”と呼ばれた男は、国際的名声を誇りながらも、体制からも観客からも孤立していた。

『どですかでん』は、その孤独な時期に生まれた「自己治療の映画」である。スラム街の人々が、幻想の中で自らを救済しようとするように、黒澤もまた映画という幻想によって、自身の精神を再生しようとしたのだ。

日本映画の黄金期が崩壊しつつある70年代初頭。“リアリズム”の旗印を掲げた社会派映画の潮流の中で、黒澤はあえて「虚構」へと突き抜けた。その選択こそ、『どですかでん』を単なる人情群像劇ではなく、“映画そのものの寓話”へと変貌させている。

奇人たちの聖地──スラムという精神の縮図

『どですかでん』の舞台は、都市の片隅に広がる貧民街である。そこには、現実の論理では救いようのない者たちが集まっている。

電車の運転を空想する少年、空想の家を夢見る乞食親子、酔いどれの日雇い、浮気を繰り返す女、暴力的な伯父。 彼らはすべて、社会の底から切り離された存在でありながら、同時にもっとも「生」に近い者たちでもある。

黒澤はこの群像を、写実的な観察ではなく、極端な色彩と構図によって描き出す。赤、青、黄──飽和した色調が画面を埋め尽くし、現実は次第に絵画的な幻想へと変わっていく。それはスラムの“再現”ではなく、“心象”の投影だ。

少年が走らせる電車の「どですかでん、どですかでん」というリズムは、彼の内なる時間の鼓動であり、同時にこの世界全体を動かす“生のリズム”でもある。

黒澤は、この幻想的反復を通じて、貧困を現実から切り離し、詩的空間として再構築した。スラムはもはや悲惨の象徴ではない。それは、人間が幻想によって現実を超越しうる可能性の場として機能しているのだ。

色彩の黙示録──黒澤の“内面”が現れる瞬間

本作における最大の衝撃は、黒澤がこれまでのモノクロ的世界観を脱し、色彩そのものを“感情の言語”として扱った点にある。 『羅生門』や『七人の侍』での明暗の劇的対比とは異なり、『どですかでん』の色は過剰で、人工的で、ほとんど絵具のように画面を支配する。

特に、かつ子(島田陽子)のエピソードにおける赤と黄の色彩設計は、黒澤作品中でも異例の官能性を帯びている。昼間から酔った伯父に襲われ、妊娠してしまうという残酷な運命を背負う彼女。

花々に囲まれて横たわる彼女の身体を、真上から捉えたショットは、まるで鈴木清順の『東京流れ者』を思わせるようなエロスとデカダンスに満ちている。それは黒澤の内なる混乱、自己の欲望と罪悪感の交錯を、無意識のうちに露呈させた場面だ。

この作品における色彩は、単なる装飾ではなく“心の分裂”を映す装置である。赤は怒りと欲望、青は孤独、黄は幻想の微光。黒澤はそれらを通じて、自らの崩壊しかけた精神を絵画的に構築しようとした。『どですかでん』とは、色彩によって綴られた黒澤の“精神の手記”なのだ。

幻想と倫理──黒澤明という矛盾体

『どですかでん』は一見すると前衛的でありながら、その根底には依然として黒澤的な倫理が流れている。 彼は決してスラムを「異形の楽園」として描かない。貧困や暴力に対する目線は厳しく、幻想はつねに倫理によって引き戻される。

終盤、乞食の父子が夢の家の中で飢え死にする場面は、幻想の崩壊であり、同時に救済の瞬間でもある。黒澤はその死を、悲劇ではなく祈りとして描く。人間が生きることの不条理を、夢見ることによってしか超えられないという、残酷な真実を提示しているのだ。

この「幻想と倫理」のせめぎ合いこそ、黒澤の映画観の核心である。彼は芸術映画にも娯楽映画にも属さない中間地帯で、バランスを保ちながら崖っぷちを歩く。

その“居心地の悪さ”こそが、黒澤明の真の強度であり、同時に『どですかでん』が今日なお異様な存在感を放ち続ける理由でもある。

“どですかでん”という祈りのリズム

『どですかでん』は、黒澤明のキャリアにおける“終わり”であり、“はじまり”でもあった。興行的には惨敗し、批評的にも賛否が分かれる。

だがこの作品を境に、黒澤は外的世界の英雄叙事詩から、内的世界の詩的構築へと舵を切った。その後の『デルス・ウザーラ』(1975年)や『夢』(1990年)は、いずれもこの変化の延長線上にある。

“どですかでん、どですかでん”という少年の独白は、鉄道の擬音ではなく、黒澤自身の心臓の鼓動なのだろう。世界が崩れても、映画が見放されても、人間はなおも想像し、語り、夢を見る。それが黒澤にとっての“生”の証明であった。

スラムの住人たちは、敗北者ではない。彼らは現実を拒むことによって、むしろ純粋な生を獲得している。黒澤明はその姿に、自らの生き残りの姿を重ねた。

映画がすでに神話を失いかけた時代に、彼は幻想の中で最後の祈りを捧げたのである。

DATA
  • 製作年/1970年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/126分
STAFF
  • 監督/黒澤明
  • 製作/黒澤明、松江陽一
  • 原作/山本周五郎
  • 脚本/黒澤明、小国英雄、橋本忍
  • 企画/黒澤明、木下恵介、市川崑、小林正樹
  • 撮影/斎藤孝雄、福沢康道
  • 音楽/武満徹
  • 美術/村木与四郎、村木忍
  • 編集/兼子玲子
  • 録音/矢野口文雄
CAST
  • 頭師佳孝
  • 菅井きん
  • 加藤和夫
  • 伴淳三郎
  • 三波伸介
  • 芥川比呂志
  • 奈良岡朋子
  • 三谷昇
  • 井川比佐志
  • 沖山秀子
  • 田中邦衛
  • 吉村実子
  • 松村達雄
  • 山崎知子
  • 渡辺篤