『スペル』(2009)
映画考察・解説・レビュー
『スペル』(原題:Drag Me to Hell/2009年)は、サム・ライミ監督が『死霊のはらわた』シリーズに通じる過激なショック描写とブラックユーモアを融合させた絶叫ホラー。ロサンゼルスの銀行員クリスティン(アリソン・ローマン)は、自身の昇進を確実にするため、老婆ガーナッシュ(ローナ・レイヴァー)の不動産ローン延長を拒絶する。屈辱を受けた老婆から「3日後に地獄へ引きずり込まれる」という恐ろしい呪いをかけられた彼女は、恋人クレイ(ジャスティン・ロング)の支えも虚しく、正体不明の悪魔「ラミア」による執拗な攻撃と生理的嫌悪感に追い詰められていく。
進化形のスプラットスティック
『スパイダーマン』シリーズでハリウッドの頂点に立ち、巨万の富と名声を手にしたサム・ライミ監督が、2009年に突如として我々の前に叩きつけた挑戦状、それが『スペル』(2009年)である。3000万ドルというホラー映画にしては破格の予算を投じ、大人が本気で、全力で、悪ふざけをやり切った。
本作は単なる『死霊のはらわた』への原点回帰ではない。確かに、サム・ライミの代名詞であるスプラットスティック(スプラッター×スラップスティック・コメディ)は健在だ。
だが、本作におけるそれは、過去の焼き直しレベルではない。ハリウッドの最前線で培った技術と演出力が、最も「くだらない」方向にフルスロットルで注ぎ込まれた、洗練された狂気なのだ。
冒頭の銀行のシーンからして不穏さが漂っているが、真のライミ節が炸裂するのは、やはり伝説の「駐車場での格闘シーン」だろう。自身の愛車(もちろんライミ映画のお約束、1973年型オールズモビル・デルタ88だ)に乗り込んだクリスティンを、老婆ガーナッシュが襲撃する。
ここで展開されるのは、恐怖と爆笑が紙一重で同居する、奇跡のようなアクションシークエンスだ。老婆は入れ歯を外しており、その歯のないブヨブヨの歯茎でクリスティンの顎に「ハムッ、ハムッ」と噛み付く。普通のホラーなら鋭利な牙で出血させるところを、あえて歯茎という絶妙に気持ち悪いチョイスをするセンス!これぞライミだ。
さらに、クリスティンが対抗手段として手にするのが、車内にあった「ホッチキス」や「定規」という文房具である点も見逃せない。ホッチキスを老婆の顔面に「バチン!」と打ち込む痛々しさ。
しかし、その直後に老婆が口から緑色の液体をクリスティンの顔面へ大量噴射するに至って、我々の感情は「怖い」を通り越して「汚い!最高!」という倒錯した歓喜へと変わる(変わらない人もいるかもしれないけど)。
この映画全編を支配しているのは、徹底した体液への執着である。鼻血は噴水のように吹き出し、口からは大量の蛾が飛び出し、眼球が飛び散る。
CG全盛の2000年代後半において、ライミは可能な限り物理的な特殊効果(プラクティカル・エフェクト)にこだわった。KNB EFXグループが手掛けた特殊メイクとアニマトロニクスの質感は、画面越しに匂いが漂ってきそうなほどリアル。
特に、ガーナッシュ夫人の造形は見事としか言いようがない。片目が白濁し、爪は黒ずみ、皮膚は垂れ下がっている。彼女がハンカチに吐き出した黄色い痰のクローズアップなどは、食事中の観客を本気で退席させにかかっているとしか思えない悪意に満ちている。
だが、その悪意こそが、ホラーファンが求めていた栄養素なのだろう。美しく整えられたマーベル・シネマティック・ユニバースの世界では絶対に摂取できない、ドロドロとした生の感情と生理的嫌悪感。
サム・ライミは『スパイダーマン』の綺麗なウェブ(蜘蛛の糸)の代わりに、老婆の汚い唾液を我々に浴びせかけることで、映画の面白さを高らかに宣言しているのである。
リーマン・ショックの亡霊、あるいは資本主義の生贄
この映画には、極めて今日的で、残酷な社会批評が横たわっている。本作が公開されたのは2009年。そう、世界経済をどん底に叩き落としたリーマン・ショックの翌年である。
主人公のクリスティンは、ホラー映画によくある「自業自得な愚か者」でもなければ、「清廉潔白な聖女」でもない。地方出身で、発音の訛りを矯正し、都会の銀行で必死にキャリアを築こうとしている、極めてリアルな労働者だ。
彼女にはライバル社員のスチュアートがおり、支店長に気に入られるために必死でアピールしなければならない。そんな彼女の元に現れたのが、住宅ローンの返済が滞ったガーナッシュ夫人だ。
ここで重要なのは、クリスティン自身は当初、延長を認めてあげたいという情を持っていたこと。しかし、昇進のため、そして支店長へのアピールのために、彼女はあえて心を鬼にして「NO」を突きつける。つまり、彼女は個人の悪意ではなく、「銀行というシステムの論理」に従ったがゆえに呪われたのだ。
ガーナッシュ夫人は、サブプライムローン問題で住処を追われた数多の低所得者層のメタファー。彼女がクリスティンに懇願する際の「家を奪わないで」という悲痛な叫びは、当時のアメリカ社会に充満していた怨嗟そのものだろう。
その怨念が、ラミアという悪魔の形を借りて、システムの末端であるクリスティン個人に襲いかかる。確かに理不尽だし、あまりにも不公平。だが、それこそが現実。巨大な金融システムの暴走のツケを払わされるのは、いつだって現場の人間であり、弱者なのだ。
ライミはこの社会的な居心地の悪さを、見事にホラー演出へと転化している。例えば、彼氏の両親との食事会のシーン。上流階級の両親の前で、クリスティンは良い嫁を演じようと必死になる。
しかし、呪いのせいで彼女の目にはデザートのケーキの中に目玉が見え、ハエが飛び回る幻覚が見える。極度の緊張とプレッシャーの中で、彼女は奇行に走ってしまう。
この場違い感、社会的信用の失墜という恐怖は、我々現代人にとっては切実で胃が痛くなる描写だ。彼女がどれだけ高価なコートを着ても、どれだけ必死に働いても、一度貼られたレッテル=呪い)は剥がれない。
彼女が愛猫の子猫を犠牲にしてまで呪いを解こうとする姿は、なりふり構わず保身に走る現代人の悲しい性を映し出している。
ファイナル・ガールの死、そして映画史に残る“最高の絶望”
そして物語は、映画史に残るあの衝撃的な結末へと雪崩れ込んでいく。ホラー映画には、ファイナル・ガールという定石がある。数々の苦難を乗り越え、恐怖に打ち勝ったヒロインは、最後には朝日の中で生き残る権利を得る、という不文律だ。『悪魔のいけにえ』(1974年)のサリーしかり、『ハロウィン』(1978年)のローリーしかり、『エルム街の悪夢』(1984年)のナンシーしかり。
クリスティンは墓地でガーナッシュ夫人の死体を掘り返し(口の中に泥水が入るシーンの不快指数はMAX!)、呪いの宿るボタンを死体に押し付けるという、常軌を逸した荒療治まで成し遂げた。
駅のホームで、愛する恋人クレイと再会し、週末の旅行への期待に胸を膨らませるクリスティン。だが、ライミはそんな甘っちょろい期待を、時速300キロの列車と共に粉砕する。
この瞬間の演出の冴え渡り方は神がかっている。スローモーションで落下するボタン。クリスティンの顔から血の気が引いていく様。そして、線路に後ずさりした彼女の足元の地面が割れ、真っ赤な業火と共に無数の悪魔の手が伸びてくる。
彼女の絶叫は、列車の通過音にかき消され、誰にも届かない。恋人の目の前で、彼女は文字通り「地獄へ引きずり込まれる(Drag Me to Hell)」。皮だけで残された彼女の顔のアップ、そして暗転、タイトルドーン!
これ以上ないくらい残酷で、これ以上ないくらいのバッドエンド。でも不思議なことに、このラストを見た後に感じるのは、陰鬱な気分ではなく、ある種の爽快感だ。
たぶんそれは、因果応報というルールを、ライミが誰に遠慮することなく徹底して貫き通したからだろう。呪いとはそういうものだし、一度犯した罪からは逃れられないという、古代ギリシャ悲劇にも通じる絶対的な掟を、現代のロサンゼルスに現出させたのだ。
商業映画のコードを破壊するパンク精神。ビバ、サム・ライミ!僕たちは喜んで、あなたと共に地獄へ堕ちようじゃないか!
- 原題/Drag Me to Hell
- 製作年/2009年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/99分
- ジャンル/ホラー
- 監督/サム・ライミ
- 脚本/サム・ライミ、アイヴァン・ライミ
- 製作/ロバート・G・タパート、グラント・カーティス
- 製作総指揮/ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン
- 制作会社/ゴースト・ハウス・ピクチャーズ
- 撮影/ピーター・デミング
- 音楽/クリストファー・ヤング
- 編集/ボブ・ムラウスキー
- 美術/スティーヴ・サクラド
- 衣装/アイシス・ムッセンデン
- アリソン・ローマン
- ジャスティン・ロング
- ローナ・レイヴァー
- ディリープ・ラオ
- デヴィッド・ペイマー
- アドリアナ・バラッザ
- チェルシー・ロス
- レジー・リー
- モリー・チーク
- ボヤナ・ノヴァコヴィッチ
- ケヴィン・フォスター
- オクタヴィア・スペンサー
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