『ノッティングヒルの恋人』(1999年/ロジャー・ミッチェル)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ノッティングヒルの恋人』(原題:Notting Hill/1999年)は、ロジャー・ミッシェル監督が手がけ、ヒュー・グラントとジュリア・ロバーツが共演したロマンティック・ドラマ。ロンドン西部ノッティングヒルで小さな旅行書専門店を営むウィリアム(ヒュー・グラント)は、偶然店を訪れたハリウッド女優アナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)と出会う。全く異なる世界に生きる二人は、再会を重ねるうちに惹かれ合い、メディアの注目と現実の壁の中で愛を試されていく。
視線の暴力と青い防壁─
『ノッティングヒルの恋人』(1999年)を、単なる身分違いのロマンティック・コメディだと思い込んでいるなら、今すぐその生ぬるい認識を改めるべきだ!!!!この映画の真の姿は、見えざる敵の視線から己の極小のテリトリーを死守する、極めてハードコアな空間と境界の防衛戦なのだから。
世界的な大スターであるアナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)は、ハリウッドという巨大な消費システムの中で、常に見られる客体としてメディアに搾取され続けている。
パパラッチという言葉は、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)に登場する報道カメラマンの名前に由来するが、90年代末のロンドンにおけるそれは、ダイアナ元妃の悲劇を思い起こさせるような、生命すら脅かす暴力装置だった。
そんな狂気の沙汰から彼女が偶然逃げ込んだのが、ノッティングヒルでサエない旅行書専門店を営むウィリアム・タッカー(ヒュー・グラント)の自宅。
このウエストボーン・パーク・ロード280番地にある青い扉は、外部の暴力的な視線を物理的に完全にシャットアウトし、個人の尊厳を守るための分厚いチタン製のシールドだ。
記者会見場や高級ホテルのスイートルームが、アナにとっての戦場だとするなら、この青い扉の内側は、彼女が唯一息をほっとつける絶対的なサンクチュアリなのだ。
だが、平和は長くは続かない。物語の中盤、下着姿のルームメイトであるスパイクが不用意に扉を開け放った瞬間、外で待ち構えていたパパラッチの無数のフラッシュが、バシャバシャと機関銃のように牙を剥く。
あれはもはやロマンスの崩壊ではなく、空爆を受けた無防備な市民を描く戦争映画 or ホラー映画のワンシーンだ。私的空間がいかに脆く、一瞬にしてメディアの暴力によってズタズタに解体されるかを見せつける、恐るべき演出。完全に監視社会のメタファーだ。
扉が開かれた瞬間、ウィリアムの愛すべき平穏な日常は、アナのまとっている狂気的な非日常に暴力的に飲み込まれ、二人の関係は木端微塵に粉砕される。
「男性版シンデレラ」の逆転劇
二人が最初に愛を確かめ合う場所は、夜の闇に紛れてフェンスを乗り越え忍び込むプライベート・ガーデンだった。
ロスミード・ガーデンズと呼ばれるこの実際のロケ地は、ノッティングヒルの特定の地域住民しか鍵を持っていない、徹底的に外部から閉ざされた特権的な空間。
もともと19世紀に開発され、一度はスラム化の危機を迎えながらも、ジェントリフィケーションによって高級住宅地へと変貌を遂げたこの街の歴史的背景が、この「鍵のかかった庭」という排他性に色濃く反映されているのが実に面白い。
不法侵入というちょっとした犯罪行為、すなわち小さな共犯関係を結ぶことで、二人は「ハリウッドの超大物女優」と「しがない本屋の店主」という社会的な肩書きを脱ぎ捨てる。
従来のロマンティック・コメディの文法ならば、経済力や社会的な権力を持つ男性が、不遇なヒロインを庇護するシンデレラ・ストーリーが王道中の王道。
『プリティ・ウーマン』(1990年)や『ベスト・フレンズ・ウェディング』(1997年)を筆頭に、それが80年代から90年代にかけての絶対的なルールだった。
しかし、この映画の構造は完全に逆転している。富も、圧倒的な名声も、そして関係をどう転がすかの決定権すらも、すべてアナが独占。ウィリアムは徹頭徹尾、待つ側の人間なのだ。
しかし、秘密の庭という結界の中においてのみ、その歪な権力勾配は完全にリセットされる。社会のヒエラルキーや外部の視線から完全に切り離された空間で、ただの男と女としてのフラットな対話が成立する。
ウィリアムの部屋に飾られたマルク・シャガールの絵画「ラ・マリエ」が象徴するように、立体的で手触りのある愛が芽生えるのは、世界から完全に隔絶された、この空間でなければならなかったのだ。
さらに言えば、ウィリアムを取り巻く友人たちもまた、アナを普通の人間として扱うための強固な防壁として機能している。妹の誕生日を祝うためにマックスとベラの家で開かれる夕食会は、本作の白眉だろう。
真っ黒に焦げたホロホロ鳥の肉を囲みながら、誰が一番惨めかを競い合う最後のブラウニー争奪戦のくだり。車椅子生活を送るベラの地に足のついた現実感や、友人たちの不器用だが血の通った温かいコミュニティの力学は、アナが背負うハリウッドという巨大な完璧主義の虚像を見事に相対化してみせる。
アナが最後に心底惹かれたのは、ウィリアム個人というよりも、彼が属する市井のコミュニティの体温であり、自分が生身の人間としていられる場所だったのだ。
パブリック空間のハッキング
失ったものの大きさにやっと気づいたウィリアムは、アナが記者会見を開いているサボイ・ホテルでへと単身突撃。
冷静に考えてみると、そこは本来アナが最も「見られる客体」として世界中に消費される、究極のパブリック空間である。無数のカメラのレンズとマイクが林立するその場所は、彼女をずっと苦しめ続けてきたメディアの暴力の象徴そのものだ。
しかし、ウィリアムは馬術と猟犬の専門誌ホース・アンド・ハウンドの記者を装い、堂々と質問を投げかける(ちなみにこの雑誌は実在する老舗雑誌であり、ハリウッドのゴシップとは縁遠いメディアであるというブリティッシュ・ジョークが炸裂している)。
この瞬間、何百ものカメラに囲まれた殺伐とした空間が、二人だけのプライベートな愛の告白空間へと魔法のようにグルンと反転する。ウィリアムの「状況が変わったら、考え直してくれますか?」という遠回しでイギリス的なアプローチに対し、アナが万感の思いを込めて「永遠に(Indefinitely)」と答えるあの瞬間、世界は完全に二人のものに。
かつて青い扉の前でパパラッチの暴力的なフラッシュに引き裂かれた二人は、今度は自らそのフラッシュの嵐の中心に立ち、眩い光を逆手に取って永遠の愛を世界に見せつける。見事なまで空間のハッキングだ。
そしてエルヴィス・コステロの甘美な名曲「She」が流れる中、映画は公園のベンチでくつろぐ二人を映し出す。公共の公園(パブリック・スペース)でありながらも、妊娠したアナがウィリアムの膝枕で安心しきって眠るという、究極的に親密なプライベート空間。
監視社会と消費カルチャーの中で、いかにして「私的な空間=愛」を死守し、それを公的な場で再構築するか。『ノッティングヒルの恋人』は恋愛映画の皮を被った、極めて知的な空間論であり、痛快なカウンターカルチャーの映画なのだ。
ちなみに以前ロンドンに観光に行ったとき、舞台の本屋さんまで足を運んで写真を撮ったので、特に意味もなく貼っておきます。みんなパシャパシャ撮ってたよ。

参考文献・出典
- 監督/ロジャー・ミッチェル
- 脚本/リチャード・カーティス
- 製作/ダンカン・ケンウォーシー
- 製作総指揮/ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー
- 制作会社/ワーキング・タイトル・フィルムズ、ポリグラム・フィルムド・エンターテインメント
- 撮影/マイケル・コールター
- 音楽/トレヴァー・ジョーンズ
- 編集/ニック・ムーア
- 美術/スチュアート・クレイグ
- 衣装/ショーナ・ハウッド
- 録音/ジョン・ミッドグレイ
- ノッティングヒルの恋人(1999年/イギリス、アメリカ)
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