100年以上にわたる映画史のなかで、世界がその完成を最も待ち焦がれていた作品であることは、間違いない。
なにしろ『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』の予告編を観るためだけに、熱狂的ファンが映画館に押し掛けたぐらいなのだから。僕もテレビで放送された予告編を録画し、何度も観返した記憶がある。
我々ファンにとって、『エピソード1』が面白いか面白くないとかは二の次。ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』とはキリストが我々人類に与えた給うたバイブルなのであり、その一言一言が神の啓示なのである。それを有り難く慎んで拝聴するのが、敬虔な教徒の義務なのだ。
公開当時僕はアメリカにいて、熱狂と興奮のるつぼと化した映画館に、ノリノリの超ハイテンションで観に行った。観客の中にはヨーダやボバ・フェットに扮装したコアなファンもいたりして、もはや雰囲気は大規模なコスプレ・ショー。
やがて場内が闇に包まれ、20世紀フォックスのファンファーレが高らかに鳴り響き、「A long time ago in a galaxy far,far away…」の文字が出てきた時は感動で泣きそうになった。
133分の上映時間中、僕はスクリーンにかぶりつきだったんであるが、エンドクレジットが流れる頃には完全に放心状態。とにかく映画であんなにガッカリしたことはない。はっきり言って、『エピソード1』は期待外れの駄作だった。帰りのマクドで飲んだコークが苦かったことよ。
その原因は明白。『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』から『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』に連なる旧3部作は、ジョージ・ルーカスがあらゆる神話やファンタジーを換骨奪胎した“普遍的物語”だった。善と悪が分かりやすく配置された勧善懲悪のスペース・オペラに、我々は熱狂したんである。
しかし、後にダース・ベイダーとなるアナキン・スカイウォーカーの少年時代にスポットを当てたこの物語において、シェイクスピアのオペラのような悲劇が最後に訪れることを我々は知ってしまっている。
純粋な物語として映画に乗り切れず、あくまで外伝的な興味でしかない『エピソード1』において、最大の関心事は特撮技術を駆使した映像表現に集まる訳だが、これが如何ともしがたい出来なのだ。
ジョージ・ルーカス自らが設立したハリウッド最強のSFX工房、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)は、パペット、アニメーション、CGなど、あらゆる手管を使ってハイパービジュアル化をはかっているが、どうにも画面がゴチャゴチャして構図が締まらず、動的なダイナミズムに欠けている。
滑らかな動きは付与できるものの、キャラクターに重力感を与えられないCGを多用したせいで、ジャージャー・ビンクスやジャバ・ザ・ハットの動きが安っぽくみえてしまうのも大きなマイナスだ(ジャージャー・ビンクスは当初役者を使って撮影していたが、予算の関係でフルCGになったらしい)。
クライマックスも食い足りない。アナキンが宇宙に飛び出して敵の宇宙船を撃沈するシークエンス、アミダラ王女たちがナブーの宮殿で敵と応戦するシークエンス、そしてグワン・ゴン・ジン&オビ・ワン対ダース・モールの対決と、3つの異なる戦いをカットバックでみせていく手法は『ジェダイの復讐』と同じ。
しかし、力点が各シークエンスに分散されてしまい、えらく中途半端な印象になってしまった。特にアナキンの空中戦は、ポッド・レースとの比較でどうしてもパンチ力に欠ける。
現代の神話と化したスター・ウォーズが、21世紀も神話であり続けられるのか。『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』は、批評的にも商業的にも思うような成果を得られることは出来なかった。
ジョージ・ルーカスのややレトロな感性が、エピソード2でどのような結果をもたらすのか、期待と不安を持って待ちたい。
- 原題/Star Wars Episode I : The Phantom Menace
- 製作年/1999年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/133分
- 監督/ジョージ・ルーカス
- 脚本/ジョージ・ルーカス
- 製作/ジョージ・ルーカス、リック・マッカラム
- 音楽/ジョン・ウィリアムズ
- 撮影/デヴィッド・タッターソル
- 美術/ギャビン・ボクエット
- 編集/ポール・マーティン・スミス
- デザイン監督/ダウ・チャン
- 音響/ベン・バート
- リーアム・ニーソン
- イアン・マクレガー
- ナタリー・ポートマン
- ジェイク・ロイド
- ペルニラ・アウグスト
- アーメド・ベスト
- サミュエル・L・ジャクソン
- イアン・マクダーミド
- ペルニラ・アウグスト
- テレンス・スタンプ
- アンソニー・ダニエルズ
- ケニー・ベイカー
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