宮崎俊のフィルモグラフィーの中で最もサービス精神に満ちた作品
宮崎駿のフィルモグラフィーを見返してみると、現代の日本を舞台にした作品を一本もつくっていないことに気づかされる。
『千と千尋の神隠し』(2001年)は現代日本から摩訶不思議な世界へ迷いこむ話だし、『耳をすませば』(1995年)においては脚本・プロデュースを担当してはいるはものの、監督はしていない。
彼の求める理想郷はもはや21世紀の日本には存在しないのだ。ファンタジーがファンタジーとして成立する時代を、宮崎駿は昭和30~40年代の日本に求めた。
僕は昔、リバイバル上映の『となりのトトロ』(1988年)を映画館まで観に行った経験がある。まわりは親子連ればっかりで、いいトシをしたオトナが一人で観に来たことが汗顔の至り。
映画が始まり、「トットロ~♪トットロ~♪」という軽快なテーマソングが流れるやいなや、ガキどもは一緒に歌いだしたりして、もう大騒ぎだった。
これほど子供たちを映画にたらしこませる、じゃなかった、熱中させてしまう宮崎俊という監督はタダモンではないと思ったものだ。『となりのトトロ』は多分、宮崎俊のフィルモグラフィーの中で最もサービス精神に満ちた作品ではあるまいか。
主役の少女、サツキとメイは母親不在の生活を強いられている。特にお姉さんのサツキは、まだ小学生なのに必然的に仮母のような役割を果たさなくてはならなくなり、毎炊事や洗濯に追われている。わがままなメイの面倒もみなくてはならない。
これは非常に興味深い設定だ。お母さんが言っているように、「ききわけのいい」サツキは他の子供たちよりもはるかに大人なのだ。作画的にもメイは天真爛漫な少女そのもののキャラ設定だが、サツキの凛とした表情、仕種は子供の描画ではない。
そんなサツキが子供に帰る一瞬、それがトトロとの交流のシーンなのである。普段は気丈にふるまっている彼女が、あどけない少女の顔をみせる。極論すれば、宮崎駿はサツキをこの笑顔にさせたいからこそ、この映画をつくったのではないか。
現代では少年が少年らしく、少女が少女らしくいられることは難しい。児童心理学的にいえば、子供が大人へ成長するプロセスは年々ボーダーレスになってきている。子供らしさの復権をファンタジーの装いで高らかに謳いあげる、宮崎駿の狙いはそこにあったような気がしてならない。
『となりのトトロ』はまさしくメイド・イン・ジャパンのウェルメイドなファンタジー作品である。だが、北欧の妖精であるはずのトロールを、この時代設定に無理矢理押し込めざるを得なかった強引さは最後まで解消されない。
あらゆる手をつかってサービスに徹した『となりのトトロ』は、根本的な構造の問題を抱えながらもヒットしてしまったのだ。
- 製作年/1988年
- 製作国/日本
- 上映時間/88分
- 監督/宮崎駿
- 脚本/宮崎駿
- 原作/宮崎駿
- 製作/徳間康快
- プロデューサー/原徹
- 企画/山下辰巳、尾形英夫
- 作画監督/佐藤好春
- 撮影/白井久男
- 音楽/久石譲
- 日高のり子
- 坂本千夏
- 糸井重里
- 島本須美
- 北林谷栄
- 雨笠利幸
- 高木均
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