『理由』(1995年/アーネ・グリムシャー)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『理由』(原題:Just Cause/1995年)は、死刑囚の冤罪を訴える手紙を受け取った法学部教授ポール(ショーン・コネリー)が、かつて起きた少女殺害事件の真相へ踏み込んでいく社会派サスペンス。再調査の中で、脅迫まがいの取り調べや証拠捏造の疑いが浮かび上がり、警察権力と司法制度の歪みが露呈していく。だが、裏で糸を引く連続殺人犯ブレア・サリバンの存在が明らかになることで、物語は一転してスリラーへと加速し、ポールは正義と罠の境界で追い詰められていく。
社会派法廷ドラマの皮を被ったスリラー
1990年代のハリウッドは、ジョン・グリシャム原作モノに代表されるような法廷サスペンス映画の黄金期だった。
ショーン・コネリーが主演と製作総指揮を務めた『理由』(1995年)も、一見するとその王道ストリームに乗った社会派ドラマとして重厚に幕を開ける。
主人公は、死刑制度反対論者として名高いハーバード大学の法学部教授ポール・アームストロング(ショーン・コネリー)。彼のもとに、フロリダ州で少女誘拐殺人の罪を着せられ死刑囚となった黒人青年ボビー(ブレア・アンダーウッド)の冤罪を晴らしてほしいという依頼が舞い込む。
白人警官による不当な暴力と自白の強要、そして南部に根強く残る黒人差別問題。物語の導入部は、人種差別というアメリカの深い闇を正面から抉り出した『ミシシッピー・バーニング』(1988年)や、のちの『評決のとき』(1996年)にも通底する、極めてシリアスで硬派なポリティカルサスペンスのトーンで突き進んでいく。
観客は当然、リベラルな知識人である主人公が、閉鎖的な田舎町の警察の腐敗を暴き、無実の青年を救い出す胸のすくような正義の物語を期待するだろう。
しかし、本作におけるこの重苦しい社会派テーマは、観客の良識と映画的予測を根底から裏切るための、極めて意地悪で巨大なミスリードの仕掛けにすぎなかったのだ。
大味B級アクションへの異常な急降下
物語が中盤に差し掛かると、この映画は突然被っていた社会派ドラマの皮を脱ぎ捨て、まったく別の顔を見せ始める。ボビーの無実を証明する鍵を握る人物として、すでに別の事件で収監されている連続猟奇殺人鬼ブレア・サリバン(エド・ハリス)が登場するのだ。
不気味な笑みを浮かべ、鉄格子越しに主人公を心理的に操作しようとするその姿は、完全に『羊たちの沈黙』(1991年)のハンニバル・レクター博士の露骨なトレースである。ここで映画は、社会派法廷ドラマから陰惨なサイコスリラー展開へと急激なジャンルチェンジを果たす。
エド・ハリスの怪演は確かに見ごたえがあるものの、この緊張感も長くは続かない。真犯人が判明し、ボビーが見事釈放された直後、物語は「実はすべてボビーが仕組んだ罠であり、彼こそが真犯人だった」という大どんでん返しを迎える。
そしてここからが本作の最も狂っている部分なのだが、映画はサイコスリラーとしての冷たい知性をあっさりとドブに捨て、終盤に向けて唐突にフロリダの湿地帯を舞台にした大味B級アクションへと雪崩れ込んでいくのだ。
爆発するボート、銃撃戦、そしてなぜか都合よく襲いかかってくるワニ。リベラルな法学者だったはずのショーン・コネリーが、いつのまにかダイ・ハード顔負けのタフガイと化して物理的な肉弾戦を繰り広げる。
社会派ドラマとして始まったはずの映画が、終わってみれば「やっぱり犯人はこいつでした」という身も蓋もないB級ホラーアクションに着地してしまう。このジャンルの三段階スライド構造は、ある意味で映画史に残る珍手と言える。
黒人差別問題とプロットの破綻
本作を語る上で絶対に避けて通れない最大の問題点は、黒人差別や警察の不当な拷問といった極めてデリケートで重いテーマを、単なる観客を騙すためのトリックとして安易に消費してしまっている点にある。
ローレンス・フィッシュバーン演じる地元警察のブラウン刑事は、序盤においてボビーに激しい暴行を加え、自白を強要したレイシストの悪徳警官として描かれる。
しかし結末で「実はボビーが本当に極悪人でした」と判明した瞬間、ブラウン刑事の振るわれた非合法な暴力や差別的構造はうやむやにされ、なぜか彼と主人公が肩を並べて、巨悪に立ち向かうバディのような関係へと強引にスライドしてしまうのだ。
正義を標榜するはずの司法制度の問題提起が、ここではただ観客を翻弄する安価なネタとして使い捨てにされており、強烈な後味の悪さと倫理的違和感を残す。
さらに、サスペンスとしてのプロットの破綻も著しい。ボビーの真の狙いは、かつて別の事件で彼を起訴し、刑務所で凄惨な暴行(結果として性器を切断される)を受ける原因を作った元検察官──すなわち主人公の妻(ケイト・キャプショー)への復讐だったと明かされる。
出世のために自分を陥れた彼女への恨みは百歩譲って理解できるとしても、自分を直接拷問し死刑台へ送った張本人であるブラウン刑事への怒りが完全にスルーされているのはあまりにも不自然だ。
おまけに、性器を失っているはずのボビーが、どのようにして少女に対する性的暴行殺人を完遂し、解剖結果と整合性を合わせたのかという致命的な矛盾も放置されたままだ。驚きを優先するあまり、ロジックが完全に崩壊しているのである。
豪華A級キャストが真顔で演じるB級珍品
主演のショーン・コネリーは、前半こそ死刑廃止を訴える高潔な知識人を演じているが、最終的には大義名分をあっさりと捨て去り、ひたすら自分の家族を守るためだけに銃を撃ちまくる家父長制の権化へと回帰していく。
死刑に反対していたはずの彼が、悪党が目の前でワニに食い殺されるのを容認し、ボビーからの「これが正義か?」という問いにも言葉を失うだけで、物語の道徳的メッセージは完全に宙に浮いたまま幕を閉じる。社会派ドラマとしての深い余韻を期待した観客は、間違いなく壮大な肩透かしを食らうはずだ。
おまけに、ショーン・コネリーとケイト・キャプショーというどう見ても親子ほど歳の離れた夫婦設定は、物語上の重要な伏線かと思いきや、単に「コネリー爺は若い女性がお好き」というハリウッド的ご都合主義の産物にすぎなかった。
しかし、この映画には無視できない見どころがひとつある。彼らの娘役を演じているのが、当時まだ10歳そこそこのスカーレット・ヨハンソンなのだ。どう見てもコネリーの孫にしか見えない彼女の初々しい姿は、のちの世界的大スターの初期出演作として強烈なオーラを放っている。
ローレンス・フィッシュバーン、エド・ハリス、ケイト・キャプショー、そしてショーン・コネリー。これだけのアカデミー賞クラスの豪華A級キャストを揃えながら、出来上がったのはプロットに穴だらけのB級トンデモ映画。
しかし、この「超一流の俳優たちが、三流の脚本を大真面目に演じ切っている」という激しいギャップこそが、一周回って本作に謎の引力とエンターテインメント性を与えているのも事実なのだ。
社会派サスペンスを期待して観ると激怒するかもしれないが、90年代ハリウッドが生み出した極上のB級変異種として鑑賞すれば、これほどツッコミどころに満ちた愛すべき映画もなかなかない。
- 監督/アーネ・グリムシャー
- 脚本/ジェブ・スチュアート、ピーター・ストーン
- 製作/リー・リッチ、アーネ・グリムシャー、スティーヴ・ペリー
- 製作総指揮/ショーン・コネリー
- 原作/ジョン・カッツェンバック
- 撮影/ラヨシュ・コルタイ
- 音楽/ジェームズ・ニュートン・ハワード
- 理由(1995年/アメリカ)
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