『汚れた血』(1986年)/レオス・カラックス
テーマと意味をネタバレ考察/あらすじ・批評・レビュー
『汚れた血』(原題:Mauvais Sang/1986年)は、レオス・カラックス監督による長編第2作目のフランス映画。物語は、愛のないセックスによって感染する病STBOが蔓延する近未来のパリを舞台に、父親を亡くした青年アレックスがギャングのマルクからSTBOワクチンの窃盗計画に誘われるあらすじを記述する。ジャン=イヴ・エスコフィエの撮影による映像美の中、計画の準備を進めるアレックスがマルクの若い恋人アンナと出会い、彼女に惹かれていく。
愛のない愛の病と、SFフィルム・ノワールの解体
ハレー彗星が夜空をかすめ、異常な熱波にうなされる近未来のパリ。この街では、愛のないセックスを交わした若者たちが次々と死に至るという恐ろしい奇病、STVDが蔓延していた。
1980年代当時、世界中を恐怖のどん底に陥れていたエイズ(AIDS)の暗い影を露骨に投影しつつも、若き天才レオス・カラックス監督はそれを単なる社会派のパニック映画にはしない。
彼の手にかかれば、致死性のウイルスすらも「真実の愛を持たない者への残酷な罰」という、極めてポエティックでロマンチックな宿命へと鮮やかに変換されてしまうのだ。
物語の骨格は、借金を抱えた暗黒街の初老の男マルク(ミシェル・ピコリ)とハンスが、死んだかつての仲間の息子である青年アレックス(デニ・ラヴァン)を雇い、製薬会社からSTVDの特効薬を盗み出そうとする強奪劇である。
しかし、カラックスはこのフィルム・ノワール的なサスペンスの構造を、あえて完全に無視し、解体していく。観客が期待するような緻密な金庫破りのスリルや、ギャング同士の血みどろの銃撃戦は、どうでもいいオマケにすぎない。
物語の中心でドクドクと脈打っているのは、犯罪計画の最中にアレックスがマルクの若い愛人アンナ(ジュリエット・ビノシュ)に一目惚れしてしまうという、絶望的な片思いの熱量ただ一つなのである。
アレックスは、自分を慕う小悪魔的な少女リーズ(ジュリー・デルピー)の想いを冷酷に振り切り、手が届かないと分かっているアンナへと完全にのめり込んでいく。
愛を信じられない大人たちが金のためにワクチンを奪い合う中で、アレックスだけは「絶対的な愛」という不治の病に感染してしまったかのようだ。
カラックスは、SFや犯罪映画の意匠を都合よく借りながら、その実、一人の青年が自らの内側から湧き上がる巨大な感情を持て余し、破滅へと向かって突き進む、純度100%の青春の暴走をフィルムに焼き付けた。
理屈もプロットも知ったことか!ここにあるのは、恋という名の致死量のウイルスに冒された男の、美しすぎる自爆の記録なのである。
「モダン・ラヴ」の爆音と疾走する映画的身体
アンナへの抑えきれない情動を持て余したアレックスが、夜のパリの街路へと飛び出す疾走シークエンス。彼がスイッチを入れたラジオから、デヴィッド・ボウイの1983年の大ヒット曲「モダン・ラヴ」の軽快なイントロが爆音で鳴り響く。その瞬間、映画のテンポは一気に限界突破のレッドゾーンへと突入する。
アレックスを演じるデニ・ラヴァンは、もはや演技という枠を完全に逸脱し、狂ったように自らの腹を殴りつけ、壁を蹴り上げ、アクロバティックに宙を舞いながら、カメラに向かって全速力で爆走し続ける。
言葉では到底処理しきれない巨大な感情の塊が、彼という生身の身体の運動そのものに直結し、スクリーンを物理的に揺るがすほどの圧倒的なエネルギーとなって放出される。
それはまさに、サイレント映画時代にチャールズ・チャップリンやバスター・キートンが身体ひとつで表現していた「映画の根源的な快楽」の、1980年代的な超絶アップデート版だ。
デニ・ラヴァンは、『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984年)から『ポンヌフの恋人』(1991年)に至る「アレックス三部作」で、レオス・カラックス監督のアルター・エゴを務めてきた。
小柄で猿のようにしなやかな筋肉を持ち、手品や腹話術を操るストリート・パフォーマーのような彼のアクロバティックな身体性は、カラックスの描くポエティックで青臭いセリフの数々に、圧倒的な生々しさと説得力を与える。
腹痛を抱えながら夜の闇を切り裂くように走るアレックスの姿は、既存の映画文法や大人たちの小賢しい論理をすべて物理的なスピードで置き去りにする、映画史上もっとも美しい感情の爆発なのだ。
ゴダールの色彩と、滑走路を駆ける天使の飛翔
レオス・カラックスがこの作品で企てたもう一つの巨大な野心、それはフランス映画の偉大なる父、ジャン=リュック・ゴダールへの狂信的なまでのオマージュと、そこからの華麗なる飛躍である。
画面を支配する、目に突き刺さるような赤、青、白、そして黄色の強烈な原色の配置を見よ!この人工的でポップな色彩設計は、明らかに『気狂いピエロ』(1965年)や『メイド・イン・USA』(1966年)といった、ゴダール作品の色彩美学を真正面から継承している。
だが、カラックスはそれを単なるノスタルジーとして真似るのではなく、80年代特有のMTV的な洗練された映像感覚と融合させ、全く新しい孤独のカラーパレットとして再構築してみせた。
その色彩の中でひときわ輝きを放つのが、アンナを演じたジュリエット・ビノシュである。当時カラックスのミューズであり実生活の恋人でもあった彼女の、どこかメランコリックで近づきがたい美しさは、完全に神格化されてカメラに収められている。
パラシュート降下のシークエンスで見せる無重力の微笑みや、真っ赤な服を着て暗闇に浮かび上がる彼女のクロースアップは、もはや物語の進行を一時停止させてしまうほどの、絶対的な強度を持っている。
一方、アレックスを執拗に追いかけるリーズ役のジュリー・デルピーも、無垢な天使性と残酷な執着を同居させた凄まじい存在感を放ち、この映画の恋愛関係を泥沼のトライアングルへと引きずり込んでいく(ちなみに僕は断然ジュリー・デルピー推しです)。
そして迎える、あまりにも唐突で詩的なラストシーン。撃たれたアレックスの血(汚れた血)が流れ出す中、滑走路に取り残されたアンナは、両腕を大きく広げて飛行機のように夜明けの飛行場を駆け抜けていく。
それは、死へと向かったアレックスの魂を引き継ぎ、彼女自身が重力という名の悲しみから解き放たれて空へと「飛翔」しようとする、奇跡のような瞬間だ。
カラックスは、映画という虚構の装置を使って、絶望のどん底から真実の愛(=重力からの解放)を力ずくで引っ張り出してみせたのである。
『汚れた血』は、網膜を焼き尽くす色彩と、鼓膜を突き破る「モダン・ラヴ」のリズムとともに、観客自身の身体に直接ブチ込まれる極上の劇薬なのだ。
- 監督/レオス・カラックス
- 脚本/レオス・カラックス
- 製作/アラン・ダアン、フィリップ・ディアス
- 撮影/ジャン=イヴ・エスコフィエ
- 音楽/ベンジャミン・ブリテン、セルゲイ・プロコフィエフ
- 編集/ネリー・ケティエ
- 美術/ミシェル・ヴァンデスタン、トマ・ペクル、ジャック・デュビュス
- 衣装/ロベール・ナルドーヌ
- 録音/ベルナール・ルルー
![汚れた血/レオス・カラックス[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/81bXiYOmUoL._AC_UL640_FMwebp_QL65_-e1774690370251.webp)
![ポンヌフの恋人/レオス・カラックス[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/813gePEpLzL._AC_UL640_FMwebp_QL65_-e1767164158171.webp)
![気狂いピエロ/ジャン=リュック・ゴダール[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/810nhBrRQNL._AC_SL1500_-e1709040571357.jpg)