『時をかける少女』(1983年/大林宣彦)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『時をかける少女』(1983年)は、大林宣彦が監督を務め、筒井康隆の同名小説を映画化した青春ファンタジー。舞台は尾道。理科室で謎の香りを嗅いだ高校生・芳山和子は、時間を超える能力を身につけてしまう。親友の吾朗や深町一夫との関係の中で、その力の意味を探りながら、繰り返される時間と初恋の記憶に翻弄されていく。やがて和子は、未来から来た少年との別れを経て、自らの記憶を消す決断を迫られる。原田知世が初主演を果たし、角川映画の象徴的存在となった作品である。
大林宣彦の変態の美学
断言しよう。大林宣彦というフィルムメーカーは、映画という巨大な幻燈機を通して、変態を究極の美学へと昇華させた魔術師である!
ここで僕が言う変態とは、単なる性的倒錯のことではない。世界を常識の回路から意図的にズラし、日常の裏側に潜む異物を、感情とイメージの暴力的な反転によって白日に晒す行為のことだ。
彼はCMディレクター時代に培った映像的フェティシズム(コマ落とし、合成、多重露光)をフル稼働させ、現実を夢に、夢を現実に変質させてしまう。
『転校生』(1982年)に続く尾道三部作の第二弾として作られた『時をかける少女』(1983年)は、そのオオバヤシ的変態性が最も結晶化した作品である。
この映画が誕生した背景には、当時の日本映画界を席巻していた角川春樹の恐るべきプロデュース戦略があった。彼は、薬師丸ひろ子、渡辺典子に続く第三の大型新人として、15歳の原田知世をスクリーン・デビューさせようと暗躍。そこで白羽の矢が立ったのが、筒井康隆のジュブナイルSF小説『時をかける少女』であり、大林宣彦という才能だった。
スクリーンに現れた原田知世は、薬師丸ひろ子が『セーラー服と機関銃』(1981年)で見せたような完成されたカリスマ性とは全く無縁の、危ういほどの未完成さを抱えていた。
セリフは棒読みだし、動きもどこかぎこちない。だが、大林宣彦はこの拙さを矯正するのではなく、むしろ思春期のリアルな揺らぎを、フィルムの中に定着させてしまった。
相手役の高柳良一との学芸会スレスレのやり取りすらも、時間が止まった箱庭の中の出来事としてのリアリティを担保している。大林は原田知世を単なる消費可能なアイドルとしてではなく、世界を感受する時間の受容体として機能させたのだ。
角川映画という巨大な商業システムの中で、これほどまでにインディペンデントなアイドル映画が撮られたことは、僥倖といって差し支えあるまい!
ラベンダーが暴く少女の覚醒
大林映画の真骨頂は、清冽な青春ファンタジーの装いのすぐ皮下に、少女が大人になる瞬間──すなわち性的覚醒というテーマを埋め込んでいる点にある。
本作においてタイムリープの引き金となるのは、理科室で和子が嗅ぐラベンダーの香りと白煙だ。この白煙を吸い込んで意識を失う和子の姿は、明らかに初潮や女性としての身体的変化の訪れを暗示するメタファーとして機能している。
その証拠に、理科室で倒れた和子を介抱した女性教師(根岸季衣)が去り際に「生理…」と呟き、岸部一徳演じる教師がその後ろ姿をネットリとしたいやらしい視線で見送るという、物語の進行とは全く無関係な異常なカットが挿入されるのだ。
この一連の流れは、明示的なエロ描写ではなく「視線の倫理をめぐる強烈な寓話である。大林は、女性の身体に宿る生理的変化を男性の欲望と無関係に描きながら、同時にその欲望をカメラのレンズ(=観客の視線)に重ね合わせる。
この二重構造こそが、オオバヤシイズムのド変態たる所以。彼の映画では、常に見る者の存在が前景化し、「純真な少女を覗き見ているお前らの欲望こそが一番ヤバい」と突きつけてくる。
弓道場で和子が的を射る凛とした姿、あるいはパジャマ姿で自室のベッドに倒れ込む姿。大林のカメラは、少女の肌を撫でる尾道の風や光の粒子さえも、強烈な性的なニュアンスを帯びさせてフィルムに焼き付ける。
つまり『時をかける少女』は、ジュブナイルSFの形式を借りた、見ることの罪の告白なのだ。
記憶の消去と残酷なノスタルジー
大林宣彦が凡百の青春映画作家と決定的に異なるのは、彼が「時間」というものを決して肯定的に扱わない点にある。
タイムトラベラーだった未来人・深町一夫が未来へ帰るとき、時間のルールに従ってすべての人間の彼に関する記憶が消去される。和子は、初めて知った初恋の胸のときめきを、愛の成就と引き換えに完全に失ってしまうのだ。
数年後、大学生になった和子が、研究室の廊下で一夫とすれ違うラストシーン。彼女は一夫を思い出せない。だが、ふと漂ってきたラベンダーの香りに、理由のわからない涙を流す。
ここにあるのは、時間という非情なシステムが、個人の最も大切な感情を容赦なく削ぎ落としていくという、あまりにも残酷な断絶だ。大林は「時をかける」という超常的行為を、SF的な奇跡としてではなく、人間の成長に伴う「不可逆な喪失」として描いたのである。
青春の輝きは、それが失われる(記憶から消去される)ことによってしか確定しない。大林映画には常に「祭りの後」のような終わりの気配が漂っているが、ハッピーエンドを峻拒するその姿勢は、現実という残酷な世界に対する彼なりの最大限の誠実さなのだろう。
そして映画の終わりを告げる、松任谷由実が書き下ろした主題歌『時をかける少女』のエンディングロール。本編のNGシーンをミュージック・ビデオ風に繋ぎ合わせ、原田知世がカメラ(観客)に向かって歌いかけるあの演出は、「映画という虚構の時間はこれで終わる。さあ、現実の時間を生きろ」という、大林監督からの優しくも厳しい別れの儀式である。
『時をかける少女』は、アイドル映画でありながら、時間と記憶、欲望と倫理、青春と死という普遍的テーマを内包した異形のマスターピースだ。
大林宣彦はこの映画を通じて、変態(現実を映画的に異化すること)こそが、最も誠実で切実な叙情であることを完璧に証明してみせたのである。
- 時をかける少女(1983年/日本)
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