『ミリオンダラー・ベイビー』(2005)責任
映画考察・解説・レビュー
『ミリオンダラー・ベイビー』(2005年)は、ボクシング映画の形式を借りながら、尊厳死という重いテーマに踏み込む。トレーラー育ちの女性ボクサー・マギーと、老トレーナー・フランキーの間に芽生えるのは、血を超えた父娘の絆。イーストウッドはここで「神に代わる父の決断」を描き出す。第77回アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演女優賞ほか4部門を受賞した。
ジャンル映画の裏切り
一緒に『ミリオンダラー・ベイビー』(2005年)を観にいったS嬢は、「観なきゃ良かった・・・」と目を腫らしながら僕に訴えた。正直スマン。僕だってコレ、女性ボクサーの立身出世物語だと思っていたのよ。「トレーラー育ちの貧しい女の子が、頑固オヤジのトレーナーと協力してプロボクサーの夢を叶える」というサクセス・ストーリーに胸を膨らましてたのよ。
しかしイーストウッドが提示したのは、「全身麻痺に陥った女性ボクサーを、老トレーナーが安楽死させる」という、尊厳死の物語であった。主人公が所属しているのはウェルター級だが、話はスーパーヘビー級に重い。参った。
『ミリオンダラー・ベイビー』は表面的にはボクシング映画の形式を踏襲している。観客は『ロッキー』的な成功譚を無意識に期待する。だが物語は中盤で急転直下。
事故によってマギーはリングから落ち、以後は生きること自体が苦痛となる。スポーツ映画の「勝利」や「栄光」といったクリシェは崩壊し、物語は尊厳死をめぐる倫理の領域へ突入する。この構造的な裏切りこそ、観客の衝撃を倍化させる仕掛けなのだ。
「責任」を背負う男の系譜
この映画においてイーストウッドが演じるフランキーは、ヒラリー・スワンク演じるマギーに「自分の身は自分自身で守れ」と諭しつづける。おそらくこの言葉は、彼が世に出るきっかけとなった西部劇でも代入可能だろう。あるいは、彼の最大の当たり役である『ダーティハリー』(1971年)のハリー・キャラハンの刑事セリフとしても。
警察の手が及ばない悪に対し、キャラハンは己の信念に基づいて正義の鉄槌を食らわせた。本編におけるフランキーもまた、神父の忠告を無視して「死を与える」という神の役割を担っていく。
イーストウッドのキャリアを俯瞰すれば、『許されざる者』(1992年)における暴力の責任、『グラン・トリノ』(2008年)における贖罪としての自己犠牲と、彼は常に「責任」を引き受ける役柄を演じつづけてきたことが分かる。『ミリオンダラー・ベイビー』は、その流れの中間点に位置づけられる重要作なのである。
宗教的禁忌への挑戦
アカデミー賞作品賞・監督賞・主演女優賞・助演男優賞という主要部門を総なめにした『ミリオンダラー・ベイビー』だが、なぜか脚本賞にはノミネートすらされなかった。
これはきわめて異例の扱いといえる。なぜなら脚本賞は物語の独創性や社会的テーマ性を高く評価する部門であり、こうした大賞レースを独占した作品であれば、通常は候補に入るのが自然だからだ。
その背景にあるのは、作品が踏み込んだ「宗教的禁忌」。物語の核心は、全身麻痺に陥ったボクサー・マギーが安楽死を望み、トレーナーであるフランキーがその願いを聞き入れるという展開にある。つまり「人間が神に代わって死を与える」行為であり、これはキリスト教倫理において最大のタブーとされている。
カトリック教会の教義では、命の始まりと終わりを決める権利は神だけが持つとされ、人間がその決定に介入することは許されない。安楽死や尊厳死は生命の神聖性を侵す行為と見なされ、強く批判されてきた歴史がある。特にアメリカ社会では宗教右派の影響力が依然として大きく、このテーマは今なお激しい論争を呼ぶ。
『ミリオンダラー・ベイビー』が提示した物語は、単なる悲劇ではなく、信仰と倫理に真っ向から挑む大胆な問題提起だった。観客は「神が決めるべき死を、人間が引き受ける」場面を目撃する。しかもそれを実行するのが、クリント・イーストウッドというアメリカ映画界の象徴的存在であるからこそ、その衝撃は倍化した。
脚本賞ノミネート落ちという不可解な評価は、むしろ作品が突きつけた倫理的問題の大きさを物語っている。イーストウッドは、神父の忠告を無視してでも「父」としてマギーの願いを引き受ける。観客はこの瞬間、彼に神を超えた「父性」を仮託せざるを得ないのだ。
女性の主体性をめぐって
一方で、マギー自身の主体性をどう評価するかも難しい問題を孕んでいる。彼女は貧困から抜け出すためにリングに立ち、トレーナーを「父」として受け入れた。事故によってその夢は奪われるが、彼女が安楽死を望むのは「生き地獄からの解放」であると同時に、「父に最後の決断を委ねる」という選択でもある。
フェミニズム的視点から見れば、彼女が主体的に生き抜く余地は与えられなかったのではないか、という批判も成立するだろう。だが同時に、それは彼女自身が選んだ最終的な「戦いのスタイル」とも解釈できるのだ。
ここで比較対象として浮かび上がるのが、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)だ。どんな楽天家でも3日は寝込んでしまいそうなこの映画には、サディステイックな悲劇的効果が満載。
アメリカという超大国への告発というメッセージはあったにせよ、監督自身が語った「たかが映画一本でアメリカを変えることなんてできない」というシニカルな視線に象徴されるように、観客は徹底して突き放される。
しかし『ミリオンダラー・ベイビー』は違う。ここにはウェットな手触りがある。イーストウッドは観客を見放さない。彼が父性の象徴として存在しているからこそ、我々は彼に責任を仮託できるのだ。ラース・フォン・トリアーが「絶望を見せつける監督」だとすれば、イーストウッドは「絶望を抱え込む監督」なのである。
父性の巨人として
ハリウッドの巨大な父性であるイーストウッドは、70歳を過ぎてからむしろその存在感を強めていった。『ミリオンダラー・ベイビー』は、その決定的な転換点に位置づけられる。
暴力の責任を、死の責任を、そして観客の涙の責任をも引き受ける巨人。彼がスクリーンに立ち続ける限り、我々はその「責任」を共に背負わされる。だからこそ、この映画は観客にとってスーパーヘビー級の重さを持つのである。
- 原題/Million Dollar Baby
- 製作年/2005年
- 製作国/アメリカ
- 上映時間/133分
- 監督/クリント・イーストウッド
- 脚本/ポール・ハギス
- 製作/ポール・ハギス、トム・ローゼンバーグ、アルバート・S・ラディ、クリント・イーストウッド
- 製作総指揮/ロバート・ロレンツ、ゲイリー・ルチェシ
- 原作/F・X・トゥール
- 撮影/トム・スターン
- 音楽/クリント・イーストウッド
- 編集/ジョエル・コックス
- 美術/ヘンリー・バムステッド
- クリント・イーストウッド
- ヒラリー・スワンク
- モーガン・フリーマン
- アンソニー・マッキー
- ジェイ・バルチェル
- マイク・コルター
- ブライアン・F・オバーン
- マーゴ・マーティンデイル
- ネッド・アイゼンバーグ
- ブルース・マクヴィッティ

