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シッコ/マイケル・ムーア

「救われるべき人間は救われるべきだ」という、マイケル・ムーアからの異議申し立て

『シッコ』(原題:Sicko/2007年)は、マイケル・ムーア監督がアメリカの医療保険制度をテーマに撮ったドキュメンタリーである。民間保険会社の不正や制度の欠陥を追い、保険料を払っても十分な治療を受けられない市民の現実を描く。カナダやイギリス、フランスなどの国民皆保険制度と比較しながら、命の扱いにおける格差を可視化していく。救急救命士や労働者の声を通じ、医療が特権ではなく権利であるという問いを投げかける。

独善の語り口、その彼方にある共感

マイケル・ムーアの思想的スタンスに対して、僕は基本的に賛同している。だが、ドキュメンタリー映画作家としての語り口には、どうしても違和感が残る。

アメリカの銃社会であれ、ブッシュ政権であれ、ムーアはあらゆる問題を己の信念のもとに善と悪に仕分けし、明快な結論へ導く。その単純化は確かに痛快だが、現実という曖昧なグレーを塗りつぶす暴力でもある。

世界は、そんなに割り切れない。思考の余白を残すこと、それこそがドキュメンタリーの仕事ではないかと、僕は思っている。ムーアの映画には、観客が考える前に“答え”が提示されてしまう危うさがある。

しかしながら、『シッコ』(2007年)には過去作にあった嫌悪感をほとんど覚えなかった。語り口の独善さや断定的な編集は変わらない。だが今回は、彼の怒りの矛先があまりにも現実的で、あまりにも人間的。

題材は医療保険――命に値段がつく社会そのものだ。ここでは善悪の線引きなど必要ない。生きるか、死ぬか。その問いの前では、すべての議論が無力化される。

資本が命を裁く国

『シッコ』が暴くのは、先進国で唯一皆保険制度を持たないアメリカという国家の矛盾である。ムーアのカメラは、貧困層ではなく、平凡な中産階級の生活へ向けられる。

医療費が払えず自分で傷を縫う人、指を二本切断して一本しか治療できなかった男、薬代のために家を売る主婦。彼らは“敗者”ではなく、社会の平均的な姿に過ぎない。

映像の説得力は、怒りよりも“事実”に宿る。ムーアは保険会社の拒否通知書を静かに映し出す。そこに書かれているのは、企業の論理と人間の命の単価。病気は「リスク」、死は「コスト」として処理される。

対比として挿入されるのは、カナダ、イギリス、フランスの皆保険制度。ムーアがこれらの国々を理想化して描いているのは否めない。だが、その過剰な単純化こそが、むしろアメリカの現実を浮き彫りにする。

医療費が無料であれば、誰もが幸福になるわけではない。それでも、“金がなければ治療を受けられない”という絶望に比べれば、理想化という演出はまだ健全だ。

ムーアの怒りは、もはやイデオロギーの表明ではなく、倫理の悲鳴へと変わっている。保険という制度が命の選別を行う国において、政治思想はもはや意味を失う。そこでは、右翼も左翼もなく、ただ“救われるべき者が救われる”という当たり前の希望が響くだけだ。

割り切れない世界のなかで

森達也がかつて語ったように、ドキュメンタリーとは“問題を断定する”ためではなく、“問題を提示する”ための表現である。『シッコ』はその原則から外れている。

ムーアのカメラはあくまで主観的で、映像の断片を都合よく編集しながら、一つの結論へと押し込めていく。だが、彼のこの一方的な語り口が初めて説得力を持ったのも、医療という題材が“白黒がつく問題”だったからだ。人が病み、苦しみ、死ぬ。その現実に“中間地帯”は存在しない。ムーアが描いたのは、政治でも体制でもなく、人間そのものの脆さ。

ラストで描かれるのは、9.11の救出作業員たちが、敵国であるキューバの病院で手厚い治療を受けるという強烈な逆説だ。国家間の対立やイデオロギーの壁が、たった一枚の医療用ガーゼで無効化される。そこには、ムーアが長年求め続けてきた“アメリカ的正義”の終焉が映っている。正義ではなく、ただの人間としての痛み。

この映画を観て初めて、僕はムーアの叫びに共感した。彼のカメラは依然として断定的で粗いが、その粗さの奥にあるものは“真実を信じたいという欲望”に他ならない。

映画を観終えたあと、僕の中に残ったのは政治的意見ではなく、単純な疑問だった。――なぜこの国では、人が死ななければ制度が変わらないのか?

DATA
  • 原題/Sicko
  • 製作年/2007年
  • 製作国/アメリカ
  • 上映時間/113分
STAFF
  • 監督/マイケル・ムーア
  • 脚本/マイケル・ムーア
  • 製作総指揮/キャスリーン・グリン、ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン
  • 製作/メーガン・オハラ、マイケル・ムーア
  • 共同プロデューサー/アン・ムーア、リーヤ・ヤング
  • ライン・プロデューサー/ジェニファー・レイサム
  • 撮影/クリストフ・ヴィット
  • 編集/クリストファー・スウォード、ダン・スウィエトリク、ジェフリー・リッチマン
  • 音楽/エリン・オハラ
CAST
  • マイケル・ムーア