宗教的なシンボルの横溢。神学的なモチーフが映像の隅々に散布されたフィルム
思いっきりタイトルがかぶっているが、菊池寛の家族小説に非ず!第60回ヴェネツィア国際映画祭において、金獅子賞と新人監督賞を受賞したロシア映画であります。
生意気盛りのアンドレイ&イワン兄弟が、12年ぶりに突然帰ってきた父親とあてもない旅に出かけるというプロットからは、父子の長年の恨み・つらみがちょっとずつ氷解していく、心温まるロードムービーを想像してしまうが、そんな牧歌的な映画にも非ず!『父、帰る』は、極めて神学的なモチーフが映像の隅々に散布されたフィルムなんである。
本作の原題は、『帰還(vozvrashchenie)」。これをロシア正教会的なモチーフとしての「帰還」と読み解けば、父親=神としてのわかりやすい比喩となる。
例えば、アンドレイとイワンの兄弟が初めて父親を確認する場面。足の裏をカメラの方向に向けて仰向けに横たわる父の構図は、ルネッサンス期に活躍したアンドレア・マンティーニャの代表作「死せるキリスト」と劇似だ。
アンドレイとイワンが父親と初めて食卓で夕食をとるシーンで、年端もいかない子供たちに父親がワイン(ぶどう酒)を飲ませるくだりは「最後の晩餐」だし、素直な兄貴&何かと反抗的な弟という設定は、思いっきりカインとアベル。
物語が日曜日から土曜日にかけての「七日間」であることも暗示的だ(イエスが十字架で磔刑に処されるのが金曜日、映画で父親が事故死するのも金曜日)。
監督のアンドレイ・ズビャギンツェフは、
父親=キリストという宗教的なシンボルが多く登場するのだが、キリスト教にそれほど馴染みがない日本では宗教的意味合いが伝わりにくいかもしれない
と語っている。この映画の思わせぶりな道具立ては、キリスト教モチーフの産物なのだ。そう考えてみると、父親が島で掘り出した「謎の箱」の正体は、まさにアーク(聖櫃)の象徴だったんじゃないか、という深読みをしたくなる。
もともとこの作品のオリジナル脚本は、ギャングが物語に絡んでくるような通俗的映画だったようだが(確かに父親がボートのモーターを受け取るシーンは、彼が密輸の仕事に関わっていたのでは?という懐疑を抱かせる)、プロデューサーの意に反して、アンドレイ・ズビャギンツェフはかくも神聖で、かくも深い謎に覆われた映画に仕立てあげてしまった。
ヴィクトル・エリセの『ミツバチのささやき』(1972年)のごとく、もしくはフレディ・M・ムーラーの『山の焚火』(1985年)のごとく、まるでサイレント映画のような静謐さに満ちているのだ。
だが、そんな神学的モチーフをぜーんぶ無視したとしても、『父、帰る』は十二分に壮麗で心揺さぶれる映画だ。特に映像のダイナミズムは素晴らしいの一言。
イワンとアンドレイが街中を駆け回るオープニングショット(横の水平運動)、イワンが鉄塔の上から下界を眺めるショット(縦の垂直運動)などは、奥行きを感じさせる空間処理だし、雨すさぶ森、孤島から海を見下ろすショットなど、パノラマティックな景観ショットも脳裏に焼き付いて離れず。
もちろんこの映画、かつてのソビエト連邦が「厳格な父」としてのロシアとの邂逅を果たす、という深読みだって可能なんだが、暗喩と隠喩の洪水にあえて身を浸すことなく、ただただこの映画が奏でる“美しくも残酷な調べ”に耳を傾けるだけで全然オッケーなのでは、と思う次第なり。
P.S.
アンドレイ役のウラジーミル・ガーリンは、撮影後まもなくロケで使用されたラドガ湖で事故に会い、若くしてこの世を去った。R.I.P.
- 原題/The Return
- 製作年/2003年
- 製作国/ロシア
- 上映時間/105分
- 監督/アンドレイ・ズビャギンツェフ
- エグゼクティブプロデューサー/エレーナ・コワリョワ
- 製作/ドミトリイ・レスネフスキー
- 脚本/ウラジーミル・モイセエンコ、アレクサンドル・ノヴォトツキー
- 撮影/ミハイル・クリチマン
- 美術/ジャンナ・パホモワ
- 音楽/アンドレイ・デルガチョフ
- 編集/ウラジーミル・モギレフスキー
- 衣装/アンナ・バルトゥリ
- ウラジーミル・ガーリン
- イワン・ドブロヌラヴォフ
- コンスタンチン・ラヴロネンコ
- ナタリヤ・ヴドヴィナ
- ガリーナ・ポポーワ
- アレクセイ・スクノワロフ
- ラーザリ・ドゥボヴィク
- エリザヴェータ・アレクサンドロワ
- リュボーフィ・カザコワ
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