『アウトロー』(2012年/クリストファー・マッカリー)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『アウトロー』(原題:Jack Reacher/2012年)は、リー・チャイルドの人気小説をクリストファー・マッカリー監督が実写化したサスペンス・アクションである。主演のトム・クルーズが、身分を捨てた孤高の元軍捜査官ジャック・リーチャーを演じ、CGに頼らない迫力のカーチェイスや格闘術を披露している。物語は、5人が犠牲となった狙撃事件の容疑者がリーチャーの出頭を要求したことから始まる。弁護士のヘレン(ロザムンド・パイク)と共に証拠の矛盾を洗う彼は、やがて背後の巨大な組織的陰謀に直面する。派手な装飾を削ぎ落とした硬派な演出と緻密なプロットが支持され、後に続くシリーズ化の起点となった。
永遠の青年神話の象徴
トム・クルーズという俳優の存在は、長らくハリウッドが生み出した永遠の青年神話の象徴だった。
『ミッション・インポッシブル』シリーズにおいて、彼は地球の重力をあざ笑うかのように世界一高いビルを駆け上がり、爆炎の中を全速力で疾走し、常にカメラの中心で自らの不死性を力強く誇示してきた。
しかし、『アウトロー』(2012年)の公開時、ついに50歳の大台を迎えた彼の肉体は、もはやCGに頼らないアクション・スターを演じ続けるには、隠しきれない老いと成熟を纏い始めていた。
リー・チャイルドの世界的ベストセラー小説『ジャック・リーチャー』シリーズを実写化した本作は、その老境に足を踏み入れたクルーズが、自身の絶対的な神話をあえて脱構築するための、極めて重要な転換点だ。そこにあるのは若さの延命ではなく、削ぎ落とされた衰退の美学である。
原作のジャック・リーチャーは身長195センチ、体重110キロを超える金髪碧眼の巨大な岩のような男。キャスティング発表時、熱狂的な原作ファンからは「小柄なトム・クルーズに演じられるわけがない!」と大ブーイングが巻き起こった。
しかしトムは、筋肉の鎧や物理的な巨大さではなく、圧倒的な存在感と、すべてを見透かすような観察の眼差しによって、この批判を完全にねじ伏せる。
彼が演じるジャック・リーチャーは、世界を救うハリウッド的英雄ではなく、もはや社会に居場所を持たない英雄の幽霊として、スクリーンに不気味に存在しているのだ。
観察する者としてのジャック・リーチャー
ジャック・リーチャーという男は、携帯電話もクレジットカードも運転免許証すら持たず、古着屋で服を買っては捨て、全米をあてもなく長距離バスで放浪する、孤独な観察者である。
リーチャーは行動よりも思考で世界を読み解く。暴力は彼にとって最後の論理的帰結にすぎない。クルーズはこれまでのキャリアで初めて、己の筋肉やスタントの派手さよりも、「知性」と「推理」でスクリーンを支配しようとしている。
トレードマークであるあの白く輝くスマイルも、これ見よがしなマッチョな肉体も完全に封印し、代わりに研ぎ澄まされた冷徹な間を最大の武器とする。
バーでチンピラに絡まれるシーンでも、彼の沈黙には明確な意味がある。相手の重心の移動、視線の動き、指先のわずかな反応、それらがすでに彼の中では戦闘の布石になっているのだ。
観察する男=リーチャーとは、情報過多な現代社会の果てに生まれた新しいタイプのハードボイルド探偵であり、物理的アクションを脱構築した恐るべき知的暴力者なのである。
監督を務めたのは、のちに『ミッション:インポッシブル』シリーズを牽引することになる盟友、クリストファー・マッカリーだ。彼は『ユージュアル・サスペクツ』(1995年)でアカデミー賞を受賞した稀代の脚本家として知られるが、監督としての彼の真価は、過剰な説明を排除する語らない勇気にある。
『アウトロー』には、現代ハリウッド映画が陥りがちなストーリー展開がほとんど存在しない。無駄な伏線は回収されず、過去の説明は大胆に省略され、登場人物たちの細かい動機は曖昧なまま放置される。だが、それこそが1970年代のアメリカ映画の豊饒な本質だったのだ!
『フレンチ・コネクション』(1971年)、『ブリット』(1968年)、『ダーティハリー』(1971年)など、都市の冷たい光を浴びた乾いた犯罪映画の系譜。マッカリーはその汚れた現実感を21世紀に再現するため、CGのスピードや派手なVFXを完全に捨て去った。
中盤のシボレー・シェベルSSによるカーチェイスは、BGMを一切排し、ただV8エンジンの猛烈な咆哮とタイヤのスキール音だけが響き渡る。車は何度もスピンし、エンストすら起こす。銃撃は耳をつんざくように鈍く、暴力はねっとりと湿っている。
観客の神経を安易に刺激するのではなく、極限の緊張感で時間を圧縮するのだ。つまり本作は、アクションの快楽を意図的に削ぎ落とした反・アクション映画なのである。そこにこそ、マッカリーの反逆的なアンチ・ハリウッド的精神が宿っている。
不条理を演出する編集のリズムと、狂気のキャスティング
さらにこの映画が異様なのは、全体が極めてシリアスで重苦しい空気に包まれていながら、しばしばブラックコメディ的なスラップスティックを突如として挿入してくることだ。
リーチャーを襲撃するために狭いバスルームに潜んだ二人のマヌケな暴漢が、バスタブの中でバットを振り回し、互いの頭を殴り合って自滅する恐ろしく滑稽なシーン。
あるいは、ドイツの鬼才映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク(!)が自ら演じる悪の首領ゼックが、ヘマをした部下に対して「詫びのしるしに自分の左手の指を噛みちぎれ」と静かに命じる、身の毛もよだつ倒錯的な場面。これらは、暴力と死の間に横たわる異様な不条理を観客に突きつける。
「シベリアの凍土では、生き延びるために自分の指を食った。お前もやれるか?」
マッカリーにとって笑いとは、暴力が持つもう一つの顔である。緊張が極限の頂点に達したとき、人間は乾いた笑いを漏らすことでしかその恐怖を解消できない。ゆえに本作における笑いは、安易なカタルシスではなく、拭い去れない不安の発露なのだ。
そして、トム・クルーズの硬質でストイックな演技の中にも、どこか自己を客観視したような滑稽さが漂う。「常に完璧であること」をやめた男の表情には、老いゆく肉体の哀しみと、それを自嘲しながら受け入れる成熟が同居している。
孤高の漂流者としてのトム・クルーズ
ジャック・リーチャーという特異なキャラクターは、他ならぬトム・クルーズ自身の現在地を鮮烈に象徴している。彼はもはや、巨大なスタジオシステムの庇護の下で、分かりやすい笑顔を振りまく中心人物にはいない。孤独に、しかし確信的に、自らの肉体を駆使して神話を更新し続ける、ハリウッドにおける究極の放浪者である。
『アウトロー』は、そんな彼が自ら築き上げた世界的スターという強固な制度から、意識的に距離を取るための告白のフィルムともいえる。ハリウッドのド真ん中で、彼はあえて名もなき匿名性を選んだ。これはスーパースターとしての自己解体の物語であり、同時に、一人の泥臭い映画人としての再生の物語でもあるのだ。
映画のラストシーン。事件を解決したにもかかわらず、誰の称賛も受けず、ヒロインと結ばれることもなく、群衆に紛れて再び長距離バスに乗り込み、名もなき街へと旅立っていくリーチャーの姿。それは、絶対的な自由という名の、終わりのない孤独の宣告だ。
地位も名誉も、すべてを投げ打ってなお、彼は己のルールに従って歩き続ける。その静かな歩みの中に、作られたアクション・スターという偶像の死と、傷だらけの表現者としての生々しい再誕が、フィルムの奥底に深く刻み込まれているのである。
- 監督/クリストファー・マッカリー
- 脚本/クリストファー・マッカリー
- 製作/トム・クルーズ、ポーラ・ワグナー、ゲイリー・レヴィンソン、ドン・グレンジャー、ケヴィン・J・メシック、デヴィッド・エリソン、デイナ・ゴールドバーグ
- 製作総指揮/ジェイク・マイヤーズ、ポール・シュウェイク
- 原作/リー・チャイルド
- 撮影/キャレブ・デシャネル
- 音楽/ジョー・クレイマー
- 編集/ケヴィン・スティット
- アウトロー(2012年/アメリカ)
- ミッション:インポッシブル ファイナル・レコニング(2025年/アメリカ)
- アウトロー(2012年/アメリカ)
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