中年親父の理想像をルパンに託した、宮崎駿流ロマンシチズム
製作期間が非常に短かったこともあって、宮崎駿自身の評価も高くなく、
「独ソ戦のドイツみたいだといつも思うんですよ」
と志半ばで撤退した思いを、軍事オタク丸だしの比喩で述懐している。
しかしながら宮崎駿という稀代の才能は、この劇場用映画処女作でいかんなく発揮されている。「ハードボイルドタッチの大人のアニメ」であった『ルパン三世』を、宮崎はロマンシチズム溢れる冒険活劇にリブート。
後年、原作者のモンキー・パンチが、「カリオストロのルパンは、本当のルパンではない」と発言している通り、『カリ城』ルパンには中年親父の理想像が投影されているのだ。
「あたしも連れていって。ドロボウはまだできないけど、きっと覚えます」
可憐な美少女クラリスからこんなセリフ言われたら、どんな不感症野郎だってグッとくるものがあら~な!しかし、ルパンは彼女を抱きしめることはしない。クラリスが両目をつぶってキスを求めるという、『ゴッドタン』のキス我慢選手権なら数秒で落ちること必至のシチュエーションにも関わらず、彼は黙って額に唇を寄せるだけなのだ!
少女の淡い恋心を受け止められない、男の美学。『卒業』(1967年)のダスティン・ホフマンにはなれやしない。『ルパン三世 カリオストロの城』には、何よりもまず宮崎流ロマンシチズムが横溢しているのだ。
冷静に考えるとこの映画、そうとうシナリオ的にはアラが多いことに気づかされる。そもそも、ルパンが何のためにカリオストロ公国に向かったのかがよく分からないし、何故ゴート札に固執したのかも不明。
指輪を見つけたルパンが血相を変えて大公屋敷に向かい、次元に説明を求められても、「さーて宿を探そうぜ」とケムに巻く始末。ルパンがかつてクラリスに命を助けられた恩がある、という真相が明かされるのも、クライマックスの結婚式直前だったりして、観客に対してかなり説明不足なストーリー展開であることは間違いない。
複数のシナリオ・ライターが、2~3年のスパンをかけて脚本を練り上げるピクサー作品であれば、このような事態は起こりえないだろう。国営カジノの襲撃、カリオストロ公国への入国、突然のカー・チェイス。ここまでのシークエンスに、論理的な繋がりはナッシング。
だが、鑑賞中は宮崎の強引なまでの語り口に引き込まれてしまって、細かいことは全く気にならない。お世辞にも「水も漏らさぬ綿密なシナリオ」とは呼べない『カリ城』は、しかしながら数々の傷があるからこそ、いつまでも瑞々しい傑作に足り得ているのだ。
かつて押井守は、著書『すべての映画はアニメになる』において、
作画の力でウムを言わさず強引に説得してしまう。この種の方法は痛快であることは確かですが、その代償として、必然という〈劇〉(ドラマ)のもつ最大の力をあっさり無化してしまうのだと思います
と、その卓越した作劇術に評価を与えつつ、宮崎的な語りが「築きつつある世界を崩しかねない危険な諸刃の刃」であると主張している。
絶壁の崖をフィアットが猛スピードで登ってしまうカーチェイスや、塔から塔へとルパンがジャンプするシーンを挙げるまでもなく、『ルパン三世 カリオストロの城』には「作画の力でウムを言わさず強引に説得してしまう」ショットが満載だ。時としてドラマを逸脱してしまうほど、自由奔放でデタラメな魅力こそが宮崎駿の天才の証。そして作画監督の大塚康生の天才の証!
押井守が言うところの「〈劇〉(ドラマ)のもつ最大の力」に心血を注いでしまうと、逆に物語が説教臭くなってしまうことは、歴史が証明してしまっている。個人的には、大塚康生と組んでハチャメチャをやりまくっていたこの頃までが、宮崎駿のピークだったと確信している次第。
- 製作年/1979年
- 製作国/日本
- 上映時間/100分
- 監督/宮崎駿
- 脚本/宮崎駿
- 製作/藤岡豊
- 原作/モンキー・パンチ
- 脚本/山崎晴哉
- 作画監督/大塚康生
- 撮影/高橋宏固
- 音楽/大野雄二
- 美術/小林七郎
- 山田康雄
- 小林清志
- 増山江威子
- 井上真樹夫
- 納谷悟郎
- 島本須美
- 石田太郎
- 宮内幸平
- 永井一郎
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