『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年/宮崎駿)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)は、モンキー・パンチの漫画を原作とし、宮崎駿が初めて長編アニメーションの監督を務めた作品。モナコのカジノから盗み出した大金が幻の偽札「ゴート札」であることに気づいたルパン三世(山田康雄)と次元大介(小林清志)が、製造元とされるカリオストロ公国へ潜入。大公家の後継者であるクラリス(島本須美)と遭遇したルパン一行は、彼女に政略結婚を強いて公国の支配と古文書の財宝を狙うカリオストロ伯爵(石田太郎)の陰謀を阻止しようと奮闘する。
現代思想をブチ破る、宮崎作家主義の誕生
今でこそ『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)は、日本アニメーション映画史における燦然と輝く金字塔として全人類からリスペクトされているが、公開当時の評価は決して高くなかった。
興行成績は前作『ルパン三世 ルパンVS複製人間』(1978年)の配給収入を大きく下回り、東宝と製作陣の期待を見事に裏切る大爆死に終わったのである。
その背景には、1977年に世界を激震させた『スター・ウォーズ』や『宇宙戦艦ヤマト』を起点とする空前のSF映画ブームがある。当時の日本映画界はハリウッド大作の圧倒的なスケールにひれ伏し、国内のアニメ映画も「幼児向け娯楽」か「ド派手なスペクタクルSF」の二極化が進んでいた。
そんな市場において、クラシカルな浪漫的冒険譚『カリオストロの城』は、あまりにも地味すぎた。だが、当時のメインストリームから完全に外れた異質さが、後年の圧倒的再評価のカギとなる。
本作は、東映動画のアニメーターから叩き上げでキャリアを積んできた宮崎駿の、記念すべき長編劇場映画デビュー作。彼が仕掛けた最大の爆弾は、主人公・ルパン三世のキャラクター像の超大胆な改変だ。
原作コミックにおけるルパンは、目的のためなら女も抱くし裏切りも厭わない、冷酷でハードボイルドな怪盗。しかし宮崎がスクリーンに描き出したルパンは「薄幸の少女クラリスを無償の愛で守護する、心優しきロマンチストな中年として再構築されている。
原作者のモンキー・パンチが「これは僕の描いたルパンではない」と苦笑いしたのも当然だろう。クラリスの純粋な想いを真正面から受け止めきれない禁欲的態度は、のちの宮崎作品に繰り返し現れる「男の絶対的倫理」の原点。
少女を命がけで守る自己抑制のヒーロー像は、『天空の城ラピュタ』(1986年)のパズーや、『風の谷のナウシカ』(1984年)のアスベルたちへとダイレクトに遺伝していく。
かつてフランスの哲学者ロラン・バルトは、1967年に発表した有名なエッセイ「作者の死」において、作品の意味を支配するのはもはや作者の意図ではなく、それを受け取る読者の多様な解釈であるとドヤ顔で説いた。
近代文学の価値観を引っくり返した偉大な理論だが、こと『カリオストロの城』のアニメーション空間においては、そんな小難しいフランス哲学など完全にブッ飛ばされてしまう。
本作には、商業的な既存キャラクターである「ルパン」という器を完全にハイジャックし、宮崎自身の個人的な倫理観やロマン観を画面の隅々にまで強烈に塗りたくった、恐るべきエゴイズムが充満している。
本作は、バルト的な意味での「作者の死」を鼻で笑って拒絶するほどに強烈な監督作家主義が刻印されており、日本アニメにおける監督のブランド化を決定づけた、歴史的特異点なのである!
論理をねじ伏せる作画の暴力とアニメ的リアリズムの極致
冷静に物語の構造を分析してみると、『カリオストロの城』は決して堅牢で完璧な脚本を持っているとは言えない。いや、むしろツッコミどころ満載のガバガバなシナリオだ。
そもそも、ルパンが因縁のカリオストロ公国を訪れる動機が冒頭ではやけに曖昧だし、国営カジノを襲撃して盗んだ大量の紙幣をニセ札だと車内で一発で見破れるほどの眼力を持つ大泥棒が、わざわざ危険な巣窟に首を突っ込む論理的必然性がない。
かつてNHKの『BSアニメ夜話』という番組で、評論家の唐沢俊一がこの物語の動機の弱さを痛烈に指摘したのは、まさにぐうの音も出ない正論なのである。
さらに言えば、ルパンが過去にクラリスに命を救われていたという一番重要なエピソードが、物語の終盤直前まで後出しジャンケンのように隠されている点も、作劇のセオリーからすればかなり反則スレスレだ。
だがーーここからが最高に重要なのだがーー我々観客は映画を夢中で観ている間、そんな脚本の綻びや論理的な矛盾を1ミリも意識することはない。なぜか?それは宮崎駿の超絶的な演出が、圧倒的な作画の暴力によって、我々の左脳を完全に麻痺させてしまうからだ。
押井守も嫉妬混じりに指摘したように、宮崎の作劇術の恐ろしさは「アニメーション特有の運動感覚の快楽によって、どんな強引な展開でも観客を力技で説得させてしまう」点にある。
追手の車から逃れるために、ほぼ垂直に近い崖の斜面を爆走して駆け上がる黄色いフィアット500。幽閉されたクラリスを救うため、時計塔の屋根から屋根へと重力を完全に無視して跳躍するルパンの大ジャンプ。
現実の物理法則に照らし合わせれば100%不可能なこれらのアクションが、アニメーション特有のダイナミックな動きとして提示された瞬間、観客の脳内には強烈なアドレナリンが分泌され、その快感に平伏してしまうのだ。支配しているのは理屈っぽい物理法則ではなく、動きの説得力だけで世界を成立させる無敵の「アニメ的リアリズム」なのである。
その立役者は、間違いなく作画監督・大塚康生だ。東映動画時代からリアリズムとコミカル描写を高次元で融合させてきた彼は、宮崎の脳内にある無茶苦茶なアクション構想を、確かな骨格を持った躍動する描線へと落とし込んだ。
さらに、小林七郎が手掛けた美術背景。ヨーロッパの古城のリアリティと、迷路のような地下水路や時計塔の歯車といったファンタジーのギミックが完璧に融合したカリオストロ公国は、「こんな世界を冒険してみたい」と観客に思わせる圧倒的な没入感を生み出している。
緻密な背景と大胆不敵なキャラクター作画の奇跡的なマリアージュが、ガバガバな脚本を包み込み、物語世界に強靭な厚みを与えているのだ。
複製技術が逆説的に生み出した、絶対的アウラ
1936年に発表した「複製技術時代の芸術作品」で、ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンは、かつての絵画や彫刻のような伝統的芸術作品は、その場・その時にしか存在しない「唯一性」と「権威」、すなわち神聖なアウラをまとっていると説いた。
しかし、写真や映画のような複製技術の発展により、芸術は工場で大量生産され、誰もが手軽に消費できるようになる。その結果、芸術から神聖なアウラは完全に剥がれ落ちて喪失してしまった、と論じた。
このベンヤミンのフレームワークをアニメーション映画に当てはめると、極めて面白い矛盾が発生する。アニメーションは、劇場公開を経てテレビの電波やビデオ、DVD、果てはネット配信へと無限にコピーされていく、究極の複製技術。ベンヤミンの理論に従えば、アニメ映画なんてものは最初から「アウラを完全に欠如した大量消費のアート」に過ぎないはずだ。
ところが、我々がテレビやモニター越しに屋根から屋根へのルパンの大跳躍を目の当たりにした瞬間、強烈な感動を味わってしまう。線の伸縮や重力を無視した浮遊感は、現実の物理空間では絶対に不可能な嘘っぱちのはず。
しかし、完璧なタイミングと運動のリズムとして我々の網膜に提示された時、アニメーションは強烈な真実味を帯びる。観客はそれを不自然な作り物とは感じず、むしろ息を呑むような「必然的な奇跡」として体験するのだ。
この画面から放たれる圧倒的な熱量と説得力は、ベンヤミンがかつて失われたと嘆いた「アウラ」そのものだ。『カリオストロの城』は、無限に大量複製される商業アニメでありながら、作画と演出の極限の技術によって、観客の心の中に逆説的に「唯一無二の絶対的アウラ」を立ち上がらせてしまう。
1970年代末、SFブームの影でヒッソリと公開された本作は、「アニメ的リアリズム」という未知の劇薬を用いて、物語の粗雑さすらも圧倒的なカタルシスへと変換してしまった。
以後のスタジオジブリ作品が世界を席巻するパラダイムシフトは、すべてここから始まったのである。
- ルパン三世 ルパンVS複製人間(1978年/日本)
- ルパン三世 カリオストロの城(1979年/日本)
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