『ツイン・ピークス』(1990)
映画考察・解説・レビュー
『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』(原題:Twin Peaks: Fire Walk with Me/1992年)は、デヴィッド・リンチ監督が手がけたカルト的TVシリーズの劇場版。世界を熱狂させた『ツイン・ピークス』の前日譚として、殺人事件の被害者ローラ・パーマーの最後の7日間を描き出し、彼女を“死体”から“人間”へと再生させた異色の作品である。
脳内麻薬の奔流
意味なんて探すな。解釈なんてクソ食らえ。
デヴィッド・リンチという男が作り出す映像世界、特に『ツイン・ピークス』(1990年)において、我々が目にする奇妙な住人たち――赤いスーツの小人、巨人、丸太を抱いたおばさん――これらを、何かのメタファーだの象徴だのと、眉間にしわを寄せて分析するのは野暮の極みである。
彼らは、何か高尚なメッセージを伝えるために計算されたパズルのピースなどではない。ナチュラル・ドラッグジャンキーであるデヴィッド・リンチという狂気の前頭葉に、バグのように突発的に出現した不確定要素にすぎないのだ。
それを精神分析のジャック・ラカンなんかを持ち出して、「これは父性の欠如がどうの……」なんて理屈の檻に押し込めようとするのは、最高級のステーキをミキサーにかけて、成分分析するようなものである。正しい楽しみ方はただ一つ。その異常なイメージを、脳みそでダイレクトに受け止めること。感覚の全開放である。
あの血肉のように鮮やかな赤いカーテン。その前で、不気味なほど左右対称の美貌を持つカイル・マクラクランが佇む。小人が逆再生の奇妙な言語で踊り狂う。そのビジュアルの強度が、網膜から直接脳髄へと雪崩れ込んでくる快感に、ただただ酔いしれればいい。僕なんぞ、赤い部屋で小人が踊っているだけで、エヴリシング・オーケー。
リンチ自身が「これは謎に関する出来事だ」とうそぶくように、この作品はアメリカの片田舎に立ち上がった現代の神話であり、悪夢とブラックユーモアで舗装された、リンチにとっての「ディズニーランド」なのだ。我々は入場券を握りしめ、この狂ったアトラクションに身を任せばいい。
ドーナツと死体が世界を熱狂させた狂乱の季節
少し時計の針を戻そう。インターネットもまだ産声を上げたばかりの1990年。当時のアメリカのテレビドラマといえば、勧善懲悪か一話完結が鉄の掟だった。そんな予定調和なブラウン管の世界に、隕石のように落下してきたのが『ツイン・ピークス』だった。
この怪物が生まれたきっかけは、すでにカルト映画の帝王として君臨していたデヴィッド・リンチと、テレビ界の熟練脚本家マーク・フロストの悪魔合体にある。
リンチの悪夢的ヴィジョンと、フロストの堅牢な構成力が化学反応を起こし、女子高生殺人事件をきっかけに田舎町のどす黒い日常を暴き出すという、とんでもない劇薬が完成した。
1989年のパイロット版を見たABC放送の上層部は、あまりの内容に頭を抱えたというが、結果として放送は大決定。そして1990年4月、伝説の第1話が放映されるやいなや、全米視聴率は驚異の34%を記録! まさに社会現象「事件である。
「Who killed Laura Palmer?(誰がローラ・パーマーを殺したのか?)」 。このフレーズは、当時の会話を支配する合言葉となった。
アンジェロ・バダラメンティのあの不穏で美しいシンセサイザー音は街中に溢れ、人々はこぞってカフェでチェリーパイを頬張り、「Damn fine coffee!(最高にうまいコーヒーだ!)」と真似をした。アメリカ、ヨーロッパ、そしてここ日本に至るまで、世界中がリンチ中毒にかかったのである。
だが、祭りの終わりは唐突だった。犯人が明かされ、最大の謎が解決してしまった瞬間、魔法は解ける。視聴率は坂を転げ落ちるように急落し、シーズン2は無残にも打ち切り。あれほどの熱狂が、まるで嘘のように鎮火してしまったのだ。
しかし、たとえ短命であったとしても、『ツイン・ピークス』がテレビ史に刻んだ爪痕は消えない。後の『X-ファイル』や『ブレイキング・バッド』、さらには近年のNetflixドラマに至るまでの道筋を切り拓いたのは、間違いなくこの作品だ。
それは90年代カルチャーにおける、美しくも破壊的な特異点だったのである。
劇場版が描く、痛々しいほどの生
テレビシリーズの打ち切りという消化不良の結末に、誰よりも納得していなかった男。それがデヴィッド・リンチだ。彼はテレビ局との軋轢の中で、「本当に描きたかったこと」がこぼれ落ちてしまったことに苛立ちを募らせていた。
その執念の矛先が向いたのが、物語の核でありながら、常に「美しい死体」としてしか扱われなかった少女、ローラ・パーマーである。
リンチは「彼女に命を吹き込むべきだ」と決意する。テレビ版の相棒マーク・フロストとは袂を分かち、リンチはあくまで個人的なプロジェクトとして、劇場版『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』(1992年)の制作に着手。
これはもはや続編でもなければ、ファンへのサービス精神にあふれたスピンオフでもない。世界中で消費され尽くした「ツイン・ピークス現象」そのものを、リンチ自身の手で焼き尽くすための、壮大で残酷な儀式だった。
1992年、カンヌ映画祭での初上映。結果は、大ブーイングの嵐!批評家たちは激怒し、興行収入は惨敗。そりゃそうだろう。観客が求めていたのは、愛すべきクーパー捜査官の活躍や、とぼけたユーモアだったのに、リンチがお出ししてきたのは、近親相姦、ドラッグ、暴力、そして精神崩壊という、救いようのない地獄めぐりだったのだから。
だが、この劇場版は、テレビ版よりもはるかに理に落ちる構造を持っている。前日譚である以上、観客はローラが最後に殺されることを知っている。「誰が犯人か?」という謎解きの快楽はそこにはない。あるのは、死に向かって秒読みが進む少女の、あまりにも生々しい日常の崩壊だ。
テレビ版では神秘的なベールに包まれていた悪が、ここでは父親による虐待や、田舎町の閉塞感といった現実の暴力として容赦なく描かれる。リンチ的な脳内麻薬(ウィアードな幻覚)は減退し、代わりに突きつけられるのは、血の通った一人の少女の痛みだ。
映画の冒頭、ゴードン・コール(リンチ自身が演じている!)たちの前に現れる「青いバラ」の女。彼女の奇妙な動きさえも、劇中できっちりと理屈で説明されてしまう。
この分かりやすさは、リンチ・ファンとしては物足りないかもしれない。だが、この映画は夢ではない。「夢の終わり」を描いているのだ。
Through the darkness of the future past, The magician longs to see. One chants between two worlds. Fire walk with me.
この呪文は、フィクションと現実の狭間に立つ我々への、別れの挨拶だ。「火よ、我と共に歩め」。リンチは、自らが作り上げた悪夢のテーマパークにガソリンを撒き、マッチを擦った。ローラを「記号としての死体」から「苦悩する人間」へと還し、熱狂を「儀式」へと昇華させるために。
すべてが燃え尽きた跡に残るのは、チェリーパイの甘い香りではない。焼け焦げたフィルムの臭いと、あまりにも悲痛なローラの叫びだけだ。だが、それこそがリンチが本当に見せたかった真実だったのではないか?
世界中が熱狂したブームを、自らの手で葬り去るこの潔さ。これほどパンクで、これほど誠実な映画作家が他にいるだろうか。我々はただ、その業火の輝きに目を焼かれるしかない。
- 原題/Twin Peaks: Fire Walk With Me
- 製作年/1992年
- 製作国/アメリカ、フランス
- 上映時間/135分
- ジャンル/ミステリー、サスペンス
- 監督/デヴィッド・リンチ
- 脚本/デヴィッド・リンチ、ロバート・エンゲルス
- 製作/グレッグ・フィーンバーグ
- 製作総指揮/デヴィッド・リンチ、マーク・フロスト
- 撮影/ロン・ガルシア
- 音楽/アンジェロ・バダラメンティ
- 編集/メアリー・スウィーニー
- 美術/パトリシア・ノリス
- 衣装/パトリシア・ノリス
- シェリル・リー
- カイル・マクラクラン
- レイ・ワイズ
- マドヘン・アミック
- ダナ・アシュブルック
- デヴィッド・ボウイ
- クリス・アイザック
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