『平成』(2018年/折坂悠太)
楽曲背景と意味を深掘り考察・批評・レビュー
『平成』(2018年)は、シンガーソングライター折坂悠太が発表した2ndアルバムである。平成元年に鳥取で生まれ、幼少期をイランとロシアで過ごした彼は、異文化の中で育んだ感覚を音に変換してきた。本作には、民謡、フォーク、ブルース、童謡、民族音楽などの要素が自然に混ざり合い、個人の記憶と時代の断片が共鳴する。収録曲「逢引」では日本的な節回しを軽やかに展開し、「みーちゃん」ではジャニス・ジョプリンへのオマージュを通じて独自の声を表現。「丑の刻ごうごう」や「さびしさ」では土着的リズムとフォーク・ロックが交錯する。第11回CDショップ大賞〈青〉を受賞し、聴き手の共感を広く得た。
- 2019年CDショップ大賞:大賞<青>
- 2018年ミュージック・マガジン:年間ベスト・アルバム ロック[日本]部門 第1位
異国の風と孤独が育んだ異形の才能
中村佳穂のライブ動画を繰り返し観ていた時期があった。天衣無縫なパフォーマンスに圧倒され、「天才って、こういう人のことをいうのか」と唸り、また再生ボタンを押す。そんなループの中で出会ったのが、折坂悠太だった。
僕が辿り着いたのは、くるりの『ばらの花』(2001年)を中村佳穂と共に歌う映像。その声を聴いた瞬間、世界の空気が少し違って聴こえた。日本語でありながら、日本語ではないようなイントネーション。内側に渦を抱えたような声。その発声の奥に、土地と時代の記憶が響いていた。
平成元年、鳥取に生まれた折坂悠太は、父親の仕事の都合で幼少期をロシア、続いてイランで過ごす。異国の空気の中で耳にした現地の音楽や、イスラム圏特有のコーランの朗誦。
そうした異質な響きに、彼はのちに「なぜか懐かしさを覚えた」と語っている。自分とはまったく異なる言語体系や土着の音に郷愁を感じる――その感覚が、後年の彼の音楽的アイデンティティの核心を形成した。つまり、折坂にとって他者の声を聴くことは、自分の声を確かめることと等価だったのだ。
帰国後、日本での生活が始まるが、彼は学校という制度の中に身体を馴染ませることができず、不登校に。時間割とチャイムの支配する均質化された空間では、彼が発すべき「声」の置き場所がなかったのだろう。
代わりにギターと歌が、社会と接続するための彼だけの言葉になった。千葉県のフリースクールに通いながらバンド活動を始め、やがて一人で弾き語りをするようになる。2013年頃から独学のまま活動を本格化させ、2016年には自主制作アルバム『たむけ』(2016年)をリリース。
わずか数年でその名は、寺尾紗穂、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)、ゴンチチ、宇多田ヒカルといった音楽家たちの耳に届く。後藤は「歌の奥にある祈りを感じる」と高く評し、宇多田も彼の歌声を絶賛。折坂の音楽は、次第に世界から認められていったのだ。
音楽的カオスを丸呑み
彼の経歴を見ても明らかなように、音楽的出発点は形式ではなく風景だ。幼少期に浴びた異国の響きと、制度の外で見つけた言葉の自由。
本人は後年のインタビューで「聴くことからしか始められない」という趣旨の発言をしている。折坂にとって音楽とは、自らを語る手段であると同時に、聴取の倫理そのものなのだ。
彼の声は、誰かの記憶に触れながら、自分の記憶を更新していく。異文化の風が混ざり合ったその発声には、越境と帰属のあいだを揺らぐ、未定義の場所が息づいている。
2018年にリリースされた2ndアルバム『平成』(2018年)は、折坂悠太という存在を世に決定づけた記念碑的作品だろう。タイトルはあまりにも巨大な時代の記号でありながら、その内容は徹底して個の記憶と生活の手触りに寄り添っている。
そこにあるのは、声高な社会的メッセージではなく、声の地層としての個人的な平成史。前作『たむけ』の延長線上にあるこのアルバムは、民謡、フォーク、ブルース、歌謡曲、童謡、さらにはシャンソンやボサノヴァといった複数のジャンルを、恣意的にではなく、自然な呼吸の延長として混ぜ合わせていく。
聴こえるのは融合ではなく、混成。それはまるで、音の異国と異国が折坂という身体を経由して再構成される、ひとつの文化的越境のドキュメントだ。
自分の中にいくつもの日本がある。どれも否定できないから、全部入れるしかなかった
この「全部入れる」というヤバすぎる感覚こそが、『平成』というアルバムの根幹だ。ジャンルを越えるのではなく、ジャンルの境界そのものを体温で曖昧にしていく。彼の音楽が和洋折衷ではなく、和洋ない混ぜと形容される所以だ。
そこでは、音楽理論的な整合性よりも、身体が先に反応している。民謡的旋律がブルースに接続し、フォークの語り口が童謡の輪郭を帯びる。これらの衝突は矛盾ではなく、むしろ折坂の「声」によってひとつの生命体として統合されるのだ。
ズンドコ節からジャニス・ジョプリンまで
アルバムは、規格外なまでに多層性に満ちている。M-2「逢引」は、氷川きよしの「きよしのズンドコ節」(2002年)のような大衆歌謡。軽やかに跳ねるラテン的なリズムの中に、艶やかな日本的節回しを仕込んでいる。ズンドコ節という土着の形式が、折坂の手にかかると、身体の奥から湧くような洗練されたグルーヴへと変貌してしまうのだから恐ろしい。
M-6「みーちゃん」は、ジャニス・ジョプリンの「サマータイム」(1968年)からの影響を公言しているナンバーだが、そこに漂う官能と湿度はきわめて日本的だ。
歌詞の「みーちゃん だーめー」という節回しには、民謡の語尾に宿る独特のコブシがある。声の震えが感情を過剰に表すのではなく、むしろ感情を抑圧し、律動へと変換するリズムとして機能している。
さらにM-7「丑の刻ごうごう」では土着的な民謡とブルース的なギターリフが奇跡的に交錯し、M-10「さびしさ」ではボブ・ディランや日本の古き良きフォーク・ロックの匂いが透過される。どの曲も、単なる引用や模倣の次元には留まらない。彼の中では、これらの音楽様式が同時多発的に生成されている。
このアルバムは、第11回CDショップ大賞2019で、星野源の『POP VIRUS』(2018年)と並び大賞を受賞。全国の販売現場が選出したこの賞は、ジャンルを問わず聴き手の共感を最も集めた作品に贈られる。つまり、『平成』はマニアックな評価に留まらず、現代ポップスの文脈の中でも確かな共鳴を生み出したアルバムだったのだ。
ノイズと呼吸が暴き出す個人的な「平成」
『平成』というタイトルを冠したこのアルバムには、社会的な総括も、大文字のメッセージも存在しない。あるのは、ひとりの人間がこの時代をどう聴き、どう生きたかという感覚の記録だけだ。
折坂の語り口は静かだが、耳を澄ませると、そこには平成という時間のざらつきが確かに刻まれている。平成という三十年を俯瞰するようなマクロの視点を拒否しつつ、その断片の中にある微細な生活の空気を拾い上げる。その手つきは、まるで時間そのものを録音するようだ。
録音のざらつき、残響の生々しさ、息の混入までもが演奏の一部として機能し、音楽の表層に時間が刻まれる。デジタル処理による無菌状態の整音よりも、録音空間の空気を優先することで、彼の作品は聴くたびに微妙に異なる質感を帯びる。
これはのちの重厚なバンドアンサンブルを展開したアルバム『心理』(2021年)や、海外録音による場の空気を取り込む姿勢を見せた近作にも受け継がれており、録音=記憶、声=空間という、時間の痕跡を鳴らす彼の芸術的態度の原点がここにある。
折坂の詞世界は一見素朴に見えて、構造的には非常に緻密だ。収録曲には、文語と口語、詩語と俗語がシームレスに混在する。言葉の階層がずれることで、聴き手は意味情報の連続よりも、音としての言葉の響きに集中させられる。
意味を伝えるための言葉ではなく、響きを作るための言葉。思えば、彼の音楽的な立ち位置は、武満徹や細野晴臣といった先人の系譜に連なっているのかもしれない。
現代音楽とポップス、民謡と電子音、郷愁と実験。これらの境界を軽やかに越えていく姿勢には、“東西の対話”や“異文化の混交”を試みてきた日本の音楽史の現代的な継承がある。
だが折坂は、そこに彼固有の“平成的な孤独”を刻印する。情報の洪水と過剰なつながりの中で、彼の歌はむしろひとりで聴くための深い時間を僕たちに取り戻させてくれるのだ。
参考文献・出典
- 1. 坂道
- 2. 逢引
- 3. 平成
- 4. 揺れる
- 5. 旋毛からつま先
- 6. みーちゃん
- 7. 丑の刻ごうごう
- 8. 夜学
- 9. take 13
- 10. さびしさ
- 11. 光
- 平成(2018年)
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