『平成』──折坂悠太が描く、時代の声と個人の記憶
『平成』(2018年)は、シンガーソングライター折坂悠太が発表した2ndアルバムである。平成元年に鳥取で生まれ、幼少期をイランとロシアで過ごした彼は、異文化の中で育んだ感覚を音に変換してきた。本作には、民謡、フォーク、ブルース、童謡、民族音楽などの要素が自然に混ざり合い、個人の記憶と時代の断片が共鳴する。収録曲「逢引」では日本的な節回しを軽やかに展開し、「みーちゃん」ではジャニス・ジョプリンへのオマージュを通じて独自の声を表現。「丑の刻ごうごう」や「さびしさ」では土着的リズムとフォーク・ロックが交錯する。第11回CDショップ大賞〈青〉を受賞し、聴き手の共感を広く得た。
異文化の記憶と声の根──越境する幼年期の感覚
中村佳穂のライブ動画を繰り返し観ていた時期があった。天衣無縫なパフォーマンスに圧倒され、「天才って、こういう人のことをいうのか」と唸り、また再生ボタンを押す。そんなループの中で出会ったのが、折坂悠太だった。
僕が辿り着いたのは、くるりの『ばらの花』を中村佳穂と共に歌う映像。その声を聴いた瞬間、世界の空気が少し違って聴こえた。日本語でありながら、日本語ではないようなイントネーション。内側に渦を抱えたような声。その発声の奥に、土地と時代の記憶が響いていた。
平成元年、鳥取に生まれた折坂悠太は、父親の仕事の都合で幼少期をイラン、続いてロシアで過ごす。異国の空気の中で耳にしたコーランの朗誦に、彼は“なぜか懐かしさを覚えた”と語っている。
自分とはまったく異なる言語体系に郷愁を感じる――その感覚が、後年の音楽的アイデンティティの核心を形成した。つまり、折坂にとって“他者の声を聴くこと”は、すでに“自分の声を確かめること”と等価だったのだ。
ロシアでの3年間を経て日本へ帰国するが、学校という制度の中に身体を馴染ませることができず、不登校となる。時間割とチャイムの支配する空間では、声を出す場所がなかった。代わりにギターと歌が、彼の“言葉”になった。
千葉県のフリースクールに通いながら、バンド活動を始め、やがて一人で弾き語りをするようになる。2013年、独学のまま活動を本格化させ、2016年には自主制作アルバム『たむけ』をリリース。
わずか数年でその名は、寺尾紗穂、後藤正文、GONTITI、宇多田ヒカルといった音楽家たちの耳に届く。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤はSNSで「歌の奥にある祈りを感じる」と評し、宇多田は「この人の声は聴き手を選ばない」とコメントした。
折坂の音楽は、カテゴライズ不可能な領域から立ち上がる“声の現象”として、次第に輪郭を帯びていった。
こうした経歴を見ても明らかなように、彼の音楽的出発点は“形式”ではなく“風景”である。幼少期に浴びた異国の響きと、制度の外で見つけた言葉の自由。そのふたつが彼の音世界の根幹にある。
本人は後年のインタビューで「聴くことからしか始められない」と語っているが、それは単なる謙遜ではない。折坂にとって音楽とは、自らを語る手段であると同時に、“聴取の倫理”そのものなのだ。
彼の声は、誰かの記憶に触れながら、自分の記憶を更新していく。異文化の風が混ざり合ったその発声には、越境と帰属のあいだを揺らぐ“未定義の場所”が息づいている。
『平成』──ジャンルを溶かす身体、構造としての混成
2018年にリリースされた2ndアルバム『平成』は、折坂悠太という存在を決定づけた作品だろう。タイトルは時代の記号でありながら、内容は徹底して個の記憶に寄り添う。
そこにあるのは社会的メッセージではなく、“声の地層”としての平成史である。前作『たむけ』の延長線上にあるこのアルバムは、民謡、フォーク、ブルース、歌謡曲、童謡、民族音楽といった複数のジャンルを、恣意的にではなく自然な呼吸のように混ぜ合わせていく。
聴こえるのは融合ではなく、混成。それはまるで、音の異国と異国が折坂という身体を経由して再構成される、ひとつの“文化的越境”のドキュメントだ。
アルバムの構造を見れば、その多層性は明らかだ。M-2『逢引』は氷川きよしの『きよしのズンドコ節』に着想を得たと本人が語るナンバーで、軽やかに跳ねるリズムの中に艶やかな日本的節回しを仕込んでいる。
ズンドコ節という大衆歌謡の形式が、折坂の手にかかると身体の奥から湧くような呼吸のリズムへと変貌する。M-6『みーちゃん』はジャニス・ジョプリンの「Summertime」への明確なオマージュでありながら、そこに漂う官能はきわめて日本的。
歌詞の「みーちゃん だーめー」という節回しには、民謡の語尾に宿る独特の“コブシ”がある。声の震えが感情を表すのではなく、むしろ感情を抑圧するリズムとして機能している。ここに折坂の“ジャンルを演じない”姿勢が現れている。
M-7『丑の刻ごうごう』では土着的な民謡とブルース的リフが交錯し、M-10『さびしさ』ではボブ・ディランのフォーク・ロックが透過される。どの曲も、引用や模倣の次元に留まらない。彼の中では、これらの音楽様式が同時多発的に生成されているのだ。
制作当時のインタビューで、折坂は「自分の中にいくつもの日本がある。どれも否定できないから、全部入れるしかなかった」と語っている。この“全部入れる”という感覚こそが、『平成』というアルバムの根幹。
ジャンルを越えるのではなく、ジャンルの境界そのものを曖昧にしていく。彼の音楽が“和洋折衷”ではなく“和洋ない混ぜ”と形容される所以だ。
そこでは、音楽理論的な整合性よりも、身体が先に反応している。民謡的旋律がブルースコードに接続し、フォークの語り口が童謡の輪郭を帯びる。これらの衝突は矛盾ではなく、むしろ折坂の声によって一つの生命体として統合される。
このアルバムは、第11回CDショップ大賞2019において「大賞〈青〉」を受賞した。全国の販売現場が選出したこの賞は、ジャンルを問わず聴き手の共感を最も集めた作品に贈られる。
つまり、『平成』は現代ポップスの文脈の中でも確かな“共鳴”を生み出した作品だったのだ。評論家たちは“ポップスの外側から現代を照射する音楽”と評し、同時に“時代を包摂する個人の声”とも呼んだ。彼の音楽は、聴く者に“平成”という言葉の意味をもう一度問わせる。
折坂の歌唱は、身体が直接発する“音の現象”として存在している。録音のざらつき、残響の生々しさ、息の混入までもが演奏の一部として機能し、音楽の表層に“時間”が刻まれる。
デジタル処理による整音よりも、録音空間の空気を優先することで、彼の作品は聴くたびに微妙に異なる質感を帯びる。これは近作『心理』(2021年)やEP『Straße』(2023年)にも受け継がれており、ベルリン録音による“場の空気”を取り込む姿勢は、現代音楽的な“現象としての音”の意識をさらに深化させている。録音=記憶、声=空間。折坂の音楽は、時間の痕跡を鳴らす芸術にほかならない。
こうして聴くと、『平成』という作品は、折坂の個人史の総括であると同時に、ポップ・ミュージックが「国境を超える」とはどういうことかを実証したアルバムでもある。
異文化に囲まれた幼少期を経て、日本語という閉じた音体系の中に“外の響き”を見いだすこと。それこそが折坂悠太という表現者の根源的テーマであり、『平成』はそのもっとも明晰な答えとして鳴り響いているのだ。
個と時代の交錯──『平成』が記録する声の地層
『平成』というタイトルを冠したこのアルバムには、社会的な総括も、世代のメッセージも存在しない。あるのは、ひとりの人間がこの時代をどう聴いたかという“感覚の記録”だけだ。
折坂の語り口は静かだが、耳を澄ませると、そこには平成という時間のざらつきが確かに刻まれている。平成という三十年を総括するような語り口を拒否しつつ、その断片の中にある微細な空気を拾い上げる。その手つきは、まるで時間そのものを録音するようでもある。
録音における彼の美学は、デジタルの清潔さではなく、アナログ的な“不完全さ”に宿る。音が空気を通して届く感覚。息遣い、ピックが弦を擦る音、マイクの奥で椅子が軋む気配――それらをすべて“音楽の一部”として受け入れる。
こうした音の密度は、録音=記録という考え方と深く結びついている。折坂にとって、レコーディングとはパフォーマンスではなく“その瞬間の空気を留める行為”だ。
ベルリンで録音されたEP『Straße』(2023年)ではその意識がさらに研ぎ澄まされ、場所の湿度や空気の振動までが音像に刻まれている。彼の歌が持つ“時間の厚み”は、こうした空間の物質性によって支えられているのだ。
『平成』の楽曲群を聴くと、どの曲も社会や時代を直接語ってはいない。それでも、彼の声は時代の声として響く。なぜなら、折坂の歌は個人の記憶の奥に沈んだもの――孤独、喪失、家族、旅立ち――を音として掬い上げ、その積み重ねが結果的に“時代”を浮かび上がらせるからだ。
M-10『さびしさ』のフォーク・ロック的な質感には、ボブ・ディラン的な語りの継承と同時に、平成後期の日本社会が抱える疲労がにじむ。
過剰な感情表現を避けながらも、声そのものに温度がある。彼の歌には「物語る」という意識が希薄だが、それがかえって“生きている声”として私たちの記憶に触れる。
折坂の詞世界は一見素朴に見えて、構造的には非常に緻密だ。『平成』の収録曲には、文語と口語、詩語と俗語、古語と新語が混在する。言葉の階層がずれることで、聴き手は言葉の意味よりも“音としての言葉”に集中させられる。
これは折坂の詩的設計の核心であり、彼がのちに語った「歌詞は音の粒の一部でしかない」という発言とも一致する。意味を伝えるための言葉ではなく、響きを作るための言葉。その態度が、彼の歌を日本語の外へと開いている。
思えば、彼の音楽的な立ち位置は、武満徹や細野晴臣といった先人の系譜に連なっている。現代音楽とポップス、民謡と電子音、郷愁と実験。これらの境界を軽やかに越えていく姿勢には、かつて武満が『ノヴェンバー・ステップス』で試みた“東西の対話”の現代的な継承がある。
だが折坂は、そこに“平成的な孤独”を刻印する。情報の洪水と過剰なつながりの中で、彼の歌はむしろ“ひとりで聴く時間”を取り戻させる。
『平成』とは、そうした個と時代の交差点に立つアルバムだ。歴史的な意味での平成ではなく、個人的な記憶としての平成。生まれ育った言語の中に異文化の残響を聴き、閉じた社会の中で開かれた声を模索する。
折坂悠太の音楽は、その矛盾を抱きしめながら進化してきた。『心理』(2021年)では社会的なテーマをより意識的に取り込みつつも、声の透明さは変わらず保たれ、そして『Straße』では再び“場所”の記憶へと回帰していく。
音楽を通して世界を変えるのではなく、世界を聴き直すこと。その行為自体が、彼にとっての表現なのだ。
- アーティスト/折坂悠太
- 発売年/2018年
- レーベル/のろしレコード
- 坂道
- 逢引
- 平成
- 揺れる
- 旋毛からつま先
- みーちゃん
- 丑の刻ごうごう
- 夜学
- take 13
- さびしさ
- 光
