YMOという過去の亡霊を葬り去るための“禊ぎ”
『TECHNODON』(1993年)は、YMOの“散開”から10年経った1993年、マーケットの要請によって製作されたアルバムだが、はっきりいってこの暗さは尋常ではない。
『BE A SUPERMAN』や、『HI-TECH HIPPIES』といったポップなハウス・ミュージックも収録されてはいるが、ドライでクールと評された『BGM』(1981年)や『TECHNODELIC』(1981年)よりも輪をかけて暗く、東芝EMIによる一大プロモーションによって祭り上げられた、歴史的な“再生”に水をさしてしまうほどに、暗いのである。
権利上の関係でYMOという表記ができなかったため、YMOに×印を付けた“ノット・ワイエムオー”として『TECHNODON』がリリースされたのは有名な話だが、YMOというアイデンティティーを捨て去ることによって、このような深刻極まりないアルバムができたことは、注目に値する。
細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一は後年インタビューにおいて、この再生を「ハメられた」と発言している。1992年に3人が“散開”以来初めて集合し、“再生”が正式決定した時も、彼らは決して乗り気ではなかったし、レコーディングも和気藹々とした雰囲気には程遠かった。
3人にとって『TECHNODON』は偉大なる復活祭ではなく、YMOという過去の亡霊を葬り去る、“禊ぎ”であったのかもしれない。M-11『 CHANCE』の最後に一瞬奏でられる『ライディーン』の旋律は、YMO葬送のレクイエムだ。
おそらく『TECHNODON』は、作られるべき理由がなく作られたアルバムなのであり、音楽的モチベーションが介在しないアルバムなのだ。
『中国女』、『MAD PIERROT』といったゴダール映画のタイトルが冠された過去のトラックは、いかにもゴダールらしい、軽妙洒脱なエッセンスを内包したテクノポップだった。
しかし、タルコフスキー映画のタイトル『ノスタルジア』(1983年)を冠したトラックをコンパイルした『TECHNODON』は、湖底に沈溺するかのような、深いアンビエンスをたたえた作品だ(私見だが、このアルバムにはタルコフスキーの主題であった“水”がサウンド・モチーフとして通底しているような気がしてならない)。
作られるべき理由がなく作られたアルバム、音楽的モチベーションが介在しないアルバムであるにも関わらず、この作品はいまだに愛聴盤として僕の中で重要な位置を占めている。
逆にこのような状況下でなければ、ここまで「音楽的に純化された音楽」は生まれないのではないか、といぶかってしまうほどだ。
しかし、このアルバムにある種の空虚さがパッケージされていることも否定できない。考えてみれば、東京ドームで行われたYMO再生コンサートも、ファナティックなファンの熱狂を打ち消すかのような空虚さに満ちあふれていた。
オーディエンスとしてその場に居合わせた証人として、僕はそれを断言できる。
- アーティスト/YELLOW MAGIC ORCHESTRA
- 発売年/1993年
- レーベル/東芝EMI
- BE A SUPERMAN
- NANGA DEF?
- FLOATING AWAY
- DOLPHINICITY
- HI-TECH HIPPIES
- I TRE MERLI
- NOSTALGIA
- SILENCE OF TIME
- WATERFORD
- O.K.
- CHANCE
- POCKETFUL OF RAINBOWS
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