大菩薩峠/内田吐夢

『大菩薩峠』──虚無を見つめるまなざし、静寂のチャンバラ

『大菩薩峠』(1957年)は、内田吐夢監督が極限まで情動を削ぎ落とし、死と無常を見つめた実存的時代劇である。盲目の剣士・机竜之介(片岡千恵蔵)は、戦乱の果てに人間であることをやめ、沈黙の中で斬り続ける存在となる。仏教的な平等観と遠景の構図が、善悪の区別を越えた“空の世界”を形づくる。

仏教的無常と内田吐夢の到達点

岡本喜八版『大菩薩峠』(1966年)を既に観ていた身として、内田吐夢版『大菩薩峠』(1957年)に触れるのは二度目の体験だった。しかし、その濃度は比較にならない。

岡本喜八の鋭利なモンタージュが〈冷〉なら、吐夢の映像は〈寂〉。そこには、戦後の人間を包み込む“生と死の無常”を見据える仏教的視座が貫かれている。

極寒のシベリア抑留を生き抜き、帰国後に甘粕正彦の最期を看取ったという逸話をもつ吐夢にとって、“死”は観念ではなく体験だった。その実感が、この映画の静謐な残酷さを形づくっている。

内田吐夢の『大菩薩峠』は、人間の行為や因果を上から俯瞰するように描く。善悪を峻別しないその眼差しは、慈悲というよりも無関心に近い。しかしその無関心こそ、すべての命を平等に包摂する仏教的到達点である。

遠景のチャンバラ──第三者のまなざし

この映画のアクションは、血やスピードに頼らない。吐夢はチャンバラを遠景の長回しで撮ることに徹し、クローズアップをほとんど排除している。

そこにあるのは、観客の没入を拒む「第三者の視点」だ。まるで無常の神が、下界で繰り広げられる人間の殺戮を静かに見守っているかのごとく。

特に印象的なのは、机竜之介(片岡千恵蔵)が天誅組とともに山小屋に逃れ、新政府軍と対峙する場面。カメラは一切動かず、ただ奥行きの中で人影が消えてゆく。戦いの緊迫よりも、「竜之介は画面奥にたどりつけるのか」という映像的緊張が生まれる。

これはもはやチャンバラではなく、“空間の中での存在の消滅”を見つめる実験だ。吐夢は殺陣を叙事から切り離し、映像そのものに形而上の意味を与えている。

虚無のチャンバラ──生と死の境界で

通常、時代劇の剣戟はカタルシスを導く。しかし本作では、刃が交わるたびに空気が冷えていく。血は流れず、悲鳴も少ない。それでも画面全体に異様な殺気が満ちているのは、行為の意味をすでに失った者たちの“死の予感”が漂っているからだ。

竜之介の剣は、もはや正義や復讐のためではない。ただ無意識の衝動として人を斬る。その虚無的動作が、内田吐夢の美学の核心にある。彼のカメラは、行為の結果ではなく、「斬るという行為そのものの空虚」を撮る。

まさに無常を映画の形式そのもので表した、冷酷な宗教映画である。

片岡千恵蔵の沈黙──時代を背負う声

渡辺邦男版に続いて机竜之介を演じた片岡千恵蔵は、すでに50代半ば。だがその存在感は妖気に満ちている。低音のつぶやき、途切れ途切れのセリフ、ほとんど口の中で転がすような言葉の断片。

それらは明確な意味を持たないが、音として空間を満たしていく。まるで、死者の声が風に混じって響くように。

この“聞き取れない声”は欠点ではない。むしろ竜之介という人物の断絶を象徴している。彼はもはやこの世に属していない。人間であることをやめ、死の側に立ちながら歩く。

観客が物語の前後関係を掴めなくなるのは当然だ。竜之介が語るのは言葉ではなく、沈黙の深淵なのだから。

静謐の果て──見ることそのものを問い直す映画

『大菩薩峠』に、視覚的な興奮ではない。視覚的な興奮ではなく、見ることそのものを問い直す。

人間の業を遠くから凝視するカメラは、観客に“観る”という行為の責任を突きつける。 岡本喜八がその後、スピードと構成美によって作品を再構築したとすれば、吐夢の本作は時間と空間を極限まで引き延ばし、映画の“無”を可視化した。

彼が描いたのは殺陣でも剣豪でもなく、「この世を見つめる神のまなざし」。 内田吐夢版『大菩薩峠』は、時代劇という枠を越えた、戦後日本映画の形而上学的頂点に位置する。冷たく、壮絶で、そして静かに美しい。

DATA
  • 製作年/1957年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/118分
STAFF
  • 監督/内田吐夢
  • 製作/大川博
  • 原作/中里介山
  • 脚本/猪俣勝人、柴英三郎
  • 企画/マキノ光雄、玉木潤一郎、南里金春
  • 撮影/三木滋人
  • 音楽/深井史郎
  • 美術/鈴木孝俊
  • 編集/宮本信太郎
  • 録音/佐々木稔郎
  • 照明/田中憲次
CAST
  • 片岡千恵蔵
  • 中村錦之助
  • 月形龍之介
  • 大河内伝次郎
  • 長谷川裕見子
  • 浦里はるみ
  • 丘さとみ
  • 日高澄子
  • 山形勲
  • 岸井明
  • 永田靖
  • 左卜全