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『ミッション:インポッシブル』(1996)スパイ神話を再編成したデ・パルマの革命

『ミッション:インポッシブル』(1996)
映画考察・解説・レビュー

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『ミッション:インポッシブル』(1996年)は、1960年代のTVシリーズ『スパイ大作戦』をブライアン・デ・パルマ監督が新たに映画化したシリーズ第1作。極秘任務の失敗をきっかけに、イーサン・ハント(トム・クルーズ)は仲間の死と裏切りの疑惑に直面し、組織から孤立したまま真相を追うことになる。CIA本部への潜入、暗号データの奪還、逃走劇が交錯する中、イーサンは自身に向けられた疑いを晴らすため、迫りくる罠と敵の企みを突破しようとする。

旧約と新約──『スパイ大作戦』から『ミッション:インポッシブル』へ

『ミッション:インポッシブル』(1996年)は、1966年から1973年に放映された伝説的TVシリーズ『スパイ大作戦』の映画化であることは周知の事実だ。しかし、このリブートは単なる懐古ではなく、ハリウッド的知性と興行主義が激しく衝突した“現代版スパイ神話の再編成”だった。

脚本には、グロリア・カッツ、デヴィッド・コープ、スティーヴン・ザイリアン、そしてロバート・タウンという超一流の筆が集結している。だが彼らの“総合知”が導き出したのは、旧シリーズの象徴ジム・フェルプスを裏切り者に仕立てるという、禁忌すれすれの構造転倒だった。

オリジナル版でフェルプスを演じたピーター・グレイブスは激怒し、マーティン・ランドーは出演を拒絶した。「自分のキャラクターを自殺させるためのボランティアはしない」──それは、テレビの“神話的時代”と、映画の“産業的時代”の決別宣言でもあった。

トム・クルーズは、あえてその火薬庫に点火した。俳優としてだけでなく、プロデューサーとしてこのプロジェクトを掌握し、演出にブライアン・デ・パルマを指名した瞬間、この映画は“シリーズ第一作”であると同時に、“旧約の破壊”として位置づけられたのである。

デ・パルマという装置──ヒッチコキアンの遺伝子改造

ブライアン・デ・パルマは、ヒッチコックの映画文法を最も正確に継承し、最も過剰に変奏してきた作家である。

『愛のメモリー』(1976年)は『めまい』(1958年)のトラウマ構造を再演し、『殺しのドレス』(1980年)は『サイコ』(1960年)の欲望分裂をシミュレーションした。そして『ボディ・ダブル』(1984年)は『裏窓』(1954年)の覗き装置をメタ映画的に再構築した。

『ミッション:インポッシブル』は、この系譜の延長線上にある。表層的にはCIA本部への潜入、列車上のアクション、爆発と変装──しかしその内側には、“見られることへの恐怖”と“真実の映像化”というヒッチコック=デ・パルマ的テーマが脈打っている。

フェルプス(ジョン・ヴォイト)が作り話を語りながら、真実がフラッシュバックで示されるシーンは、その典型だ。言葉と映像、虚構と現実の断層。そこには、観客の視覚そのものを裏切るデ・パルマ的“映像トラップ”が仕込まれている。

デ・パルマは、従来のフェティッシュな撮影様式──スプリット・スクリーン、360°パン、スローモーション──を極端に抑制しているが、その抑制自体が“職人の実験”である。監督の個性を中和しても、文法だけは残す。これが、デ・パルマにとっての新しい「不在の演出」だった。

逃走する男──トム・クルーズの身体と言説

イーサン・ハントというキャラクターは、トム・クルーズの“映画的身体”の転換点を象徴している。『トップガン』(1986年)の頃の青年性はすでに終わり、ここでは“信じた組織に裏切られる男”という存在論的孤立が始まる。

『マイノリティ・リポート』(2002年)、『宇宙戦争』(2005年)、『オブリビオン』(2013年)──彼がのちに繰り返す“逃走の映画群”の原型は、すでにこの時点で完成していた。クルーズは走りながら信念を探す。走ることが思考であり、逃げることが自己証明となる。

デ・パルマはこの“逃げる身体”を、ヒッチコック的スパイ・スリラーの構造へと接続する。冤罪・逃走・誤解・再生。『北北西に進路を取れ』(1959年)をリファレンスにしながら、トム・クルーズを現代のケイリー・グラントに仕立てたのだ。

だが、ここで注目すべきは「逃げる」ことが「立ち向かう」ことと等価である点だ。彼の身体は、常に視線に晒され、常に監視される。逃走とは、被写体であることの宿命である。トム・クルーズとは、監視社会時代のヒーロー=被写体なのだ。

“無味”の映像──デ・パルマの自己抑制とハリウッドの要請

『ミッション:インポッシブル』の最大の美点は、ブライアン・デ・パルマという強烈な個性を、トム・クルーズが“制御可能な商業的強度”へと転換した点にある。デ・パルマ映画に特有のヴィヴィッドな赤も、官能的な黒も、ここでは影を潜める。画面は驚くほどフラットで、均質で、冷たい。

この“無味乾燥”こそが、90年代ハリウッドのメインストリームが求めた均質な映像言語だった。観客は癖を嫌い、個性を拒む。だが、デ・パルマはその条件を逆手に取り、均質さの中にサスペンスを構築する実験を行った。

CIA本部の無音の宙吊りシークエンスは、演出の抑制と緊張の極致である。音楽を消し、呼吸だけで物語を支える。ここでは、アクションよりも“静止”が支配する。まるで画面そのものが息を止めているかのようだ。これこそ、デ・パルマがヒッチコックから継承した“サスペンス=沈黙”の美学である。

シリーズの起点──「個性の中和」が生んだ新しい匿名性

『ミッション:インポッシブル』は、デ・パルマ映画としては最も“中庸”で、トム・クルーズ映画としては最も“均整の取れた”一本である。だがその均衡こそが、以後続くシリーズの設計思想──「監督の個性よりもブランドの統一感」──を決定づけた。

ジョン・ウー、J・J・エイブラムス、ブラッド・バード、クリストファー・マッカリー……。それぞれが異なる作風を持ちながらも、シリーズ全体は「ミッション:インポッシブル」という匿名的文法の中で統一されていく。デ・パルマの“コクの無さ”は、やがて“シリーズの味”として継承されたのだ。

トム・クルーズは『ミッション:インポッシブル』で、プロデューサーとしても俳優としても“自己神話の書き換え”を成し遂げた。かつてのヒーロー像を裏切り、監督の個性を飲み込み、シリーズの永続性を保証する“ブランドの身体”へと変貌した。

『ミッション:インポッシブル』は、ブライアン・デ・パルマの映画でも、トム・クルーズの映画でもない。それは、ハリウッドそのものの身体が動いている映画である。