2017/9/30

大甲子園/水島新司

水島新司の欲望と妄想を結晶させた、野球漫画形式のマジック・リアリズム

水島新司という漫画家は、人生の大半を野球に捧げ、365日野球のことばかりを考え続け、その結果として現実と自己の創出した幻想世界とが混線する、軽いパラノイア的状態にあったと思われる(偏見)。

その精神的状況の極点として読むべきなのが、1983年から1987年にかけて連載された大作『大甲子園』だ。

この作品の構造はきわめて特異である。水島自身が生み出した偉大なるプレイヤーたち――山田太郎(『ドカベン』)、中西球道(『球道くん』)、真田一球(『一球さん』)、三郎丸三郎(『ダントツ』)、藤村甲子園(『男どアホウ甲子園』)――を一堂に会し、トーナメント方式で戦わせるという、あからさまに個人的趣味に傾斜したクロスオーバー企画なのだ。

ドカベン
『ドカベン』(水島新司)

ここでは作者の内部に長年共存してきたキャラクターたちが、現実の人格のように振る舞い、再び甲子園の舞台に立つ。すなわち本作は、手塚治虫のスターシステムやアメリカン・コミックスにおけるマルチ・ユニバースと並ぶ、メタフィクショナルな自己交差実験として理解することができる。

通常、同一作者の主人公同士であれば、その潜在能力は公平に設定されるはずだ。しかし、水島はそんなことはしない。彼は明訓高校=山田太郎をあからさまにエコひいきし、最終的には“長男を溺愛する父親”のごとく他キャラクターを脇役へと追いやる。

ここには「試合の公正さ」というスポーツマンガの基本原理を自ら破壊し、作者自身の欲望や感情移入を物語の推進力として露呈させるという、きわめて稀なナラティブ構造が現れている。

水島にとって甲子園は「公平な競技場」ではなく、「父性的偏愛をもって自らのキャラクターたちを再配置する夢想の舞台」だったのである。

最大の見どころは、もちろん中西球道と山田太郎の直接対決だ。「最強の投手」と「最強の打者」を激突させ、作者自らが野球マンガ史上屈指の夢のカードを演出。延長18回でも雌雄が決することはなく、決着は翌日の再試合に。最終的にフルイニング27回を要して明訓が辛勝するという、リアル野球の枠組みをはるかに逸脱した展開が待ち受ける。

しかも球道くんは27回を全力で投げ抜き、再試合で163キロという自己最速をマーク。ここにおいて荒唐無稽さは単なる誇張ではなく、現実の甲子園では決して実現できない、カタルシスを補完する物語装置として機能する。緻密な試合描写と、超人的能力の併置。この矛盾こそが水島野球の最大の美学だ。

この作品を野球マンガ史の流れに位置づけると、その意義はいっそう鮮明になる。戦後の「スポ根」第一世代――梶原一騎原作の『巨人の星』(1966–71年)やちばあきおの『キャプテン』(1972–79年)――が、根性・努力・忍耐を中心に据えた修養の物語として野球を描いたのに対し、水島はよりキャラクターを前面化させた。

彼の作品における野球は、単なる競技の再現ではなく、キャラクターの個性と宿命がぶつかり合う幻想劇であった。『ドカベン』に代表されるキャラクター人気の爆発は、70年代のスポ根の「勝利至上主義」から一歩離れ、選手たちが「人格を持ったアイドル的存在」として読者に愛される方向を切り開いたといえる。

その延長線上に『大甲子園』がある。つまり水島作品は「努力と根性の叙事詩」から「キャラクター人気の総決算」へとシフトし、80年代的な文化状況を鮮明に映し出したのだ。

ここで思い出すべきは、同時代の対抗軸として存在したあだち充の『タッチ』(1981–86年)である。『タッチ』は恋愛要素や日常性を前景化し、野球を「青春の記憶」として描いた。

そのスタイルはリアリズムに根差し、劇的誇張よりも心理劇・人間関係を優先した。つまり1980年代半ばの野球マンガは、「超人型」と「リアリズム型」という二極に分岐していたのである。

タッチ
『タッチ』(あだち充)

野球の神話化とキャラクターの幻想的再会を突き詰め、現実世界では到達し得ないファンタジー甲子園を構築した『大甲子園』は、明らかに「超人型」の頂点に位置する作品だろう。

対照的に『タッチ』は、誰もが経験するはずの日常的時間を、野球というモチーフを媒介にして繊細に照射した。両者は同時代的に並走しつつ、まったく逆の方向へと分岐している。

したがって『大甲子園』の歴史的意義は、単に水島野球の総決算であるにとどまらず、『タッチ』と対照的に「荒唐無稽な超人野球」を極限まで推し進めたモニュメントである点に求められる。

さらに90年代以降を視野に入れると、『大甲子園』の意味は一層豊かに見えてくる。あだち充は『H2』(1992–99年)において、『タッチ』のリアリズムを継承しつつ、より多層的な恋愛劇と絡めて野球を描いた。

また満田拓也の『MAJOR』(1994–2010年)は、主人公の幼少期からプロ野球・メジャーリーグまでを描き切ることで、成長と野球キャリアの全体像をリアリスティックに提示した。これらは「人生を通した野球」というテーマを前面化し、幻想劇よりも生のプロセスを描く方向に進んだといえる。

一方で、21世紀以降の『グラゼニ』(2010年~)に見られるように、野球マンガはプロ選手の経済的リアリティや労働条件を描く方向へと展開。そこでは水島的な「幻想の甲子園」や「キャラクター神話」は後景化し、むしろ産業としての野球、リアルな生活としての野球がテーマとなっている。

グラゼニ
『グラゼニ』(森高夕次、アダチケイジ)

だが、このようなリアリズムの深化は、裏を返せば水島的「超人野球」への対抗関係から生じたともいえる。荒唐無稽な『大甲子園』が一つの極を提示したからこそ、その反動として、日常、職業、人生といったリアル要素を強調する作品群が登場したのだ。

『大甲子園』は、水島新司のキャリアにおける総括的作品であると同時に、戦後野球マンガの流れを「スポ根の修養物語」から「キャラクター神話」へと変容させたひとつの到達点である。そして90年代以降のリアリズム型作品との対比において、その荒唐無稽さと幻想性はむしろ鮮明さを増している。

水島が描いたのは現実の甲子園ではなく、彼の頭の中で永遠に繰り広げられる幻想の甲子園であった。その意味で『大甲子園』は、単なる野球マンガではなく、作家の欲望と妄想を結晶させた、野球漫画形式のマジック・リアリズムとして位置づけるべきであろう。

DATA
  • 著者/水島新司
  • 発表年/1983年〜1987年
  • 掲載誌/週刊少年チャンピオン
  • 出版社/秋田書店
  • 巻数/全26巻