売れセンを狙って見事大ヒットを記録した、浦沢直樹の代表作
浦沢直樹は、そもそもプロの漫画家を志していたわけではない。小学校低学年の頃、手塚治虫『火の鳥』に衝撃を受けて漫画を描き始めたものの、それは趣味の延長でしかなかった。高校・大学時代にはボブ・ディランの音楽に傾倒し、軽音楽部に所属していたくらいだ。
転機は就職活動期に訪れる。浦沢は編集者を志して小学館の入社試験を受け、その際に持参した漫画原稿が「ビッグコミックスピリッツ」の編集者の目に留まった。その作品『Return』は新人賞を受賞することになり、これにより浦沢はプロの漫画家としての第一歩を踏み出すことになる。
ヒューマンアクション漫画『パイナップル ARMY』を経て、浦沢直樹の名声を一気に高めたのが、『YAWARA!』だ。題材に女子柔道を選んだ背景には、単なるスポーツ漫画的興味だけでなく、ラブコメディやお色気、さらには幅広い読者層への市場戦略的意図があったものと推察する。
本作の革新性は、主人公・猪熊柔のキャラ設定にある。彼女は天才柔道少女でありながら、柔道を好まず、恋愛やファッション、友人との社交を優先する「フツーの少女」だ。
この構造は、従来のスポーツ漫画における「努力と成長」を主軸とする物語規範を意図的に逸脱し、物語の中心を「いかに試合に勝つか」から「いかに試合に出させないか」という葛藤へと移行させた。
ジェンダー論的視点からも、『YAWARA!』は注目に値する。柔は身体能力に優れる一方で、これまでの少年誌で描かれてきた「力と勝利の物語」から見事に脱却している。
彼女の葛藤は、女性キャラクターが自己実現と社会的期待の間で経験する二重の圧力を象徴的に描くものであり、スポーツ漫画における性役割の再定義を試みていると言える。また、物語においてコメディリリーフを担う猪熊滋五郎の存在は、権威的で保守的な父権的価値観を緩和し(何かに付け“~ぢゃ”と叫ぶ感じとか)、読者が女性主人公の自由な主体性を受容するための装置として機能する。
スポーツ漫画史的にみても、『YAWARA!』は特異な位置を占める。従来のスポーツ漫画は、特訓・必殺技・ライバルとの対決といったプロットに依拠する傾向が強かったが、本作ではこれらの要素が巧妙に排除されている。そんなことをしなくても十分に強いし、そもそも彼女に特訓する気がさらさらないからだ。
柔道という競技は物語における障害としてのみ機能し、主人公の才能と社会的圧力によって物語が展開される。この手法は、ジャンルの形式美を批判的に再編成する一方で、エンターテイメントとしての完成度を高めることに成功した。
浦沢直樹のストーリーテーリングの特徴として、個々のキャラクターの心理や社会的文脈を丁寧に紡ぎ、物語の精緻な構造を保持する手法が挙げられる。後続作『MASTERキートン』や『MONSTER』においても、そのトーンは一貫して生真面目だ。
その手法は、『YAWARA!』においても顕著。柔道の試合描写や専門知識の提供に依存せず、ジャンル規範を意図的に逸脱しつつ、キャラクターの葛藤を丁寧に描いていく。その結果、読者は多層的な物語体験を享受できることとなる。浦沢直樹の計算と構造設計の巧みさは際立っている。
才能と社会的圧力、日常生活と競技活動の二重性を描きながら、エンターテイメントとしての普遍性と完成度を両立させた点で、、『YAWARA!』は同時代の漫画文化における重要作と言えるだろう。
- 著者/浦沢直樹
- 発表年/1986年〜1993年
- 掲載誌/ビッグコミックスピリッツ
- 出版社/小学館


