『宝島』(2018)
映画考察・解説・レビュー
『宝島』(原題:L’Île au trésor/2018年)は、パリ近郊の「セルジー・ポントワーズ・レジャー・アイランド」を舞台に、ひと夏を過ごす多様な人々を捉えた傑作ドキュメンタリー。ギョーム・ブラック監督は、ロメール映画のロケ地でもあるこの場所で、フェンスを越える少年たちと警備員の攻防を『ピーター・パン』のような冒険譚として昇華させた。ドキュメンタリーでありながら劇映画のような“奇跡の瞬間”に満ちた97分は、現代フランス社会の縮図と共に、誰もが知る「夏の輝きと終わり」を詩的に焼き付けている。
ドキュメンタリーとフィクションが溶け合う奇跡の97分
もしアナタが「今年の夏はどこにも行けなかった」と嘆いているなら、今すぐこの映画を観るべきだ。いや、むしろ実際に海に行くよりも、この映画の中に飛び込んだ方が、よほど濃密で、切なく、そして「本物」の夏の匂いを嗅ぐことができるかもしれない。
現代フランス映画界のトップランナー、ギョーム・ブラック監督による『宝島』(2018年)は、タイトルからして、スティーヴンソンの冒険小説を連想させる。
だが、舞台はカリブ海ではない。パリから電車でたった30分、セーヌ=エ=オワーズ県にある、セルジー・ポントワーズ・レジャー・アイランド。そう、ここはフランスの労働者階級や移民たちが集う、巨大な市民プールであり、コンクリートジャングルの中に出現した人工の楽園なのだ。
セルジー・ポントワーズといえば、ヌーヴェルヴァーグの巨匠エリック・ロメールが『友だちの恋人』(1987年)の舞台に選んだ、あの場所。ロメールがあの幾何学的な都市計画の中で、恋に恋する若者たちの遊戯を描いてから約30年。ギョーム・ブラックは再びこの地にカメラを据えた。
だが、彼が撮ろうとしたのは、小洒落たブルジョワたちの恋模様ではない。もっと雑多で、もっと騒々しく、そしてどうしようもなく愛おしい「混沌としての夏」だ。
観客は、この映画を観始めて数分で、混乱に襲われるだろう。これは本当にドキュメンタリーなのか、と。カメラは驚くほど至近距離で、女の子をナンパしようと必死な男たちの情けない会話や、警備員の目を盗んでフェンスを乗り越えようとする悪ガキたちの息遣いを捉えている。
あまりにも出来すぎた構図、あまりにも「劇的」なタイミング。まるで神様が書いた脚本があるかのように、物語が転がっていく。それがあまりにも謎すぎて、僕は渋谷ユーロスペースで見終わったあと、近くのカフェに駆け込んで映画についてググりまくったものだ。
ここには、ギョーム・ブラックという作家の恐るべき手腕と、執念とも言える制作背景がある。彼はこの映画のために、なんとひと夏を費やし、166時間もの素材を撮影。単純計算で1週間ぶっ続けでカメラを回しても足りない分量だ。
彼はただ漫然と、風景を撮っていたわけではない。彼は「待って」いたのだ。現実がフィクションを超える瞬間が訪れるのを、ハンターのようにじっと待ち続けていたのである。
そして何より驚かされるのは、彼の演出スタイル。例えば、ナンパに勤しむ若者たちのシーン。普通なら隠し撮りをするだろうが、監督は彼らにこう声をかけたらしい。「君たち、これから女の子に声をかけに行くの? だったら、その『ナンパ』を撮らせてくれないか?」。
この共犯関係こそが、本作の魔法のタネなである。撮られる側も、カメラがあることを意識しながら、自らの「役割」を演じている。だからこそ、あのナンパ失敗の瞬間の気まずさは、ドキュメンタリーのリアルさと、コメディ映画のような滑稽さを同時に帯びているのだ。
ピーター・パンとフック船長の終わらない鬼ごっこ
この映画の批評的な核心、それは「境界線(フェンス)」の政治学にある。タイトルは『宝島』だが、構造的には『ピーター・パン』に近い。このレジャー施設は、大人社会のルールが一時的に停止する、ネバーランドなのだ。
ここに集うのは、入場料数ユーロを払ってゲートをくぐる市民たちだけではない。裏の森からフェンスをこじ開け、タダで入り込もうとする地元の少年たち。彼らはまさに「ロスト・ボーイズ(迷子たち)」だ。
彼らにとって、この島は攻略すべき要塞であり、退屈な日常から脱出するための聖域。カメラは、彼らを犯罪者としてではなく、体制に挑む冒険者として英雄的に映し出す。彼らが金網を乗り越える瞬間のサスペンスたるや、どんなアクション映画よりも手に汗握るはず。
そして、このネバーランドを守るのが、施設長のパトリックだ。彼はさしずめフック船長といったところか。無線機を片手に広大な園内をパトロールし、部下たちに指示を飛ばす。彼は厳格な管理者であり、この「王国」の秩序を誰よりも愛する王だ。
だが、ギョーム・ブラックの視点は、決して彼を「若者の自由を奪う悪役」としては描かない。むしろ、引退を間近に控えたパトリックの横顔には、ひとつの時代が終わろうとしている哀愁が漂っている。
「ここは私の人生そのものだった」と語る彼の言葉は重い。彼もまた、この永遠に続くかのような夏の祝祭から、去らなければならない一人の人間なのだ。
警備員と少年たちの攻防すら、ここでは深刻な対立ではなく、どこか儀式めいた鬼ごっこのように見えてくる。追う者と追われる者、その双方がいて初めて、この島の生態系は完成する。
これぞ、分断されたフランス社会を「遊び」の空間として再構築する、ブラック監督のユートピア的な視座ではないか。
さらに注目すべきは、この映画が内包する「社会の縮図」としての機能だ。画面に映るのは、多くがアフリカ系やアラブ系のルーツを持つ人々。パリの中心部に住む富裕層が、バカンスで南仏の高級リゾートへ消える中、郊外の労働者階級はこのの楽園に集まる。
そこには、多様な人種、言語、文化が入り混じり、水着という無防備な姿で隣り合っている。一見すると多文化共生の理想郷に見えるが、カメラは時折、そのユートピアに入った「裂け目」を見逃さない。
ナンパを断られた男が吐き捨てる差別的な言葉や、利用者とスタッフの間に走る緊張感。映画は政治的なスローガンを一切叫ばないが、ただ「誰がそこで遊び、誰が管理しているか」を映すだけで、フランス社会の現状を雄弁に語っている
だが、監督は彼らを社会問題の被害者としては描かない。彼らはここで、笑い、叫び、恋をし、生きている。その圧倒的な実在感!「可哀想な人々」なんてレッテルを貼る隙を与えないほど、彼らの夏は輝いているのだ。
166時間から抽出された「夏の終わり」のダイヤモンドダスト
本作を語る上で外せないのが、後の傑作『みんなのヴァカンス』(2020年)との接続だ。実は、この『宝島』の撮影中に出会った人々やエピソードが、『みんなのヴァカンス』の種になっている。
現実世界で魅力的なキャラクターを発掘し、彼らをモデルに、あるいはそのまま俳優として起用してフィクションを作る。ギョーム・ブラックにとって、ドキュメンタリーとフィクションは対立するものではなく、地続きの実験場なのだ。
本作に出てくる、不器用だが憎めない若者たちの姿を見れば、彼がいかに人間を愛し、その滑稽さを肯定しているかが痛いほど伝わってくる。ワイズマンのような巨匠たちがシステムを冷徹に解剖するのに対し、ブラックはもっと体温が高く、どこかロマンチックだ。
彼は被写体を標本としてではなく、同じ夏を共有する友人として見つめている。だからこそ、僕たちはスクリーンの向こう側の彼らに、自分の友人のような親近感を抱いてしまうのだ。
映画の終盤、季節が巡り、施設が冬の眠りにつく準備を始めるシーンは、映画史に残る美しさだと断言したい。あれほど賑やかだったプールから水が抜かれ、空っぽのコンクリートが剥き出しになる。子供たちの歓声は消え、ただ風の音だけが響く。「祭りのあと」の静寂。
それは、誰にでも訪れる「青春の終わり」のメタファーでもある。どんなに楽しいヴァカンスも、いつかは終わる。永遠に続くと思われた若さも、いつかは失われる。しかし、だからこそ、その一瞬の輝きは尊いのだ。
ギョーム・ブラックは、膨大な時間の砂の中から、二度と戻らない夏という名のダイヤモンドダストを掬い上げた。ドラマなのかドキュメンタリーなのか、そんなジャンル分けなんてどうでもいい。ここには、映画というメディアでしか表現できない、時間の魔法が封じ込められているのだから。
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