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2017/9/20

それでも僕はやってない/周防正行

『それでも僕はやってない』──周防正行が可視化した「正義の構造」

『それでも僕はやってない』(2007年)は、痴漢冤罪事件を通して日本の刑事司法制度を描く、周防正行監督の社会派ドラマ。通勤電車内で誤って逮捕された青年・金子徹平が、無実を訴えながら取調べ、勾留、裁判を経て追い詰められていく。映像による証拠が排除され、証言と手続きのみで判断される裁判構造が、司法の現実を浮かび上がらせる。

制度そのものを可視化する映画的構造

周防正行は『それでも僕はやってない』(2007年)で、痴漢冤罪というセンセーショナルな題材を選びながらも、安易な感情移入や社会的告発を慎重に排除した。彼が焦点を当てたのは、罪と無罪を分ける「司法制度そのものの構造」である。

決定的瞬間――つまり“真実”の映像――をいっさい提示せず、被害者・被疑者・証言者それぞれの「主観的証言」だけで事件を再構成する。観客は、いつのまにかその曖昧な断片の中で「陪審員」としての位置に置かれる。

ここで映画は、単なる再現ドラマではなく「制度の再演」と化す。真実を暴くことではなく、“判断を迫られる構造”そのものを映し出す。これは演出の形を借りた制度批評であり、同時にメディア倫理の問題でもある。

周防の演出には、徹底した中庸の感覚がある。加瀬亮が演じる青年の個人史はほとんど描かれず、彼の感情の動きも極端に抑制されている。これは共感を拒む冷淡さではない。むしろ制度のなかで匿名化されていく「被告」という存在を、倫理的距離をもって描くための手段だ。

周防は観客を泣かせることを拒む。感情の高ぶりをカットし、情緒を論理で抑え込む。その冷静な筆致が、逆説的に現実の残酷さを浮かび上がらせる。

黒沢清が都市の無意識を、青山真治が愛と政治の共振を描いたのに対し、周防は社会の装置そのもの――「手続きとしての正義」――を主題化する。そこには明確な映画思想がある。

小津的構図と倫理のデザイン

周防の画面構成には、小津安二郎的な構図意識が色濃く流れている。水平線を強調した安定したカメラポジション、対話シーンでの正面性、被写体をわずかにずらす幾何学的なバランス。これらの手法は、感情の爆発を抑え、観客の距離感を調整するための装置として機能している。

特に取調室や法廷のショットでは、カメラは人物の間に介在し、あたかも“社会の眼”のように中立的な視点を保つ。小津が家族という制度の内部に潜む倫理を静かに描いたように、周防は司法制度という“家族なき共同体”の構造を、幾何学的秩序によって可視化する。

カメラの静謐さこそが、制度の冷たさを体現しているのだ。

法廷空間の演出構造と時間のリズム

『それでも僕はやってない』の法廷シーンは、通常のドラマが採用する“クライマックス的緊張”を拒んでいる。代わりに、証言→反証→再質問→判決という手続きが淡々と進行する。そこに流れるのは、「劇的時間」ではなく「制度的時間」だ。

編集リズムも意図的に均質化されており、音響設計すら冷静を極める。観客は時間の遅延、反復、沈黙の間(ま)を体感しながら、「裁かれるとは何か」を生理的に理解していく。

まるで小津が“家族の沈黙”を描いたように、周防は“制度の沈黙”を描いている。映画が進むほどに、正義の言葉が意味を失い、沈黙だけが真実を語る――その構造が恐ろしいほど緻密に組み上げられている。

沈黙する映画、語らない倫理

オリバー・ストーンのように怒声をあげることなく、周防は静かに社会を射抜く。声を上げられない被告、聞こうとしない制度、沈黙する法廷――それらを淡々と描くことで、「語らぬことによって語る」という映画的倫理を達成している。

『それでも僕はやってない』は、“声の映画”ではなく“沈黙の映画”である。語りの抑制が倫理となり、沈黙が社会批評となる。そこにこそ、ベルイマン的な実存の静けさと、小津的な構築の美学が共存している。

周防正行は、この作品で初めてエンターテインメントと制度批評の両立という日本映画の到達点を示したのだ。

DATA
  • 製作年/2007年
  • 製作国/日本
  • 上映時間/143分
STAFF
  • 監督/周防正行
  • 製作総指揮/桝井省志
  • 製作/亀山千広、関口大輔、佐々木芳野
  • 脚本/周防正行
  • 音楽/周防義和
  • 撮影/柏野直樹
  • 美術/部谷京子
  • 編集/菊池純一
CAST
  • 加瀬亮
  • 役所広司
  • 瀬戸朝香
  • 山本耕史
  • もたいまさこ
  • 田中哲司
  • 光石研
  • 尾美としのり
  • 小日向文世
  • 大森南朋
  • 鈴木蘭々
  • 本田博太郎
  • 竹中直人