『プラダを着た悪魔』(2006年/デヴィッド・フランケル)
テーマと意味をネタバレ考察・あらすじ・批評・レビュー
『プラダを着た悪魔』(原題:The Devil Wears Prada/2006年)は、ローレン・ワイズバーガーのベストセラー小説を原作に、デヴィッド・フランケルが監督を務めたコメディ・ドラマ。ジャーナリストを志してニューヨークにやってきたアン・サックス(アン・ハサウェイ)が、一流ファッション誌『ランウェイ』の編集長ミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープ)の第2アシスタントとして採用される。当初はファッションに無関心だったアンディは、ミランダの絶え間ない理不尽な要求と冷酷な扱いに挫折しかけるが、アートディレクターのナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の手助けで洗練された姿に変貌し、次第にミランダの信頼を勝ち取っていく。
血塗られたマフィアの構造
テレビの洋画劇場で無限にリピート放送され、誰もが一度は目にしたことがあるであろう『プラダを着た悪魔』(2006年)。
ファッション業界に憧れる垢抜けないヒロインが、悪魔のような上司にしごかれながらも、恋に仕事に奮闘して見事に成長を遂げる、極上のキラキラ・サクセスストーリーだ。
……なーんてこの映画を思っているおめでたい連中がいるなら、今すぐその生ぬるい幻想をゴミ箱にぶち込むべし!
そもそも主人公のアンドレア(アン・ハサウェイ)は、ファッション業界など微塵もリスペクトしていない。彼女は硬派なジャーナリストになるための踏み台としてランウェイ編集部に入社しただけ。
おまけに最初から献身的で優しい恋人ネイトが存在するため、これは王子様を見つけるロマンティック・コメディの定型ですらない。彼女はミランダ(メリル・ストリープ)の無慈悲な要求に応え続けることで恋人との溝を深め、業界で生き残るために本来の倫理観を徐々に麻痺させていく。
煌びやかなファッション業界の裏側で展開されているのは、マフィア映画や企業スリラーと完全に同じような、「裏社会でののし上がりと魂の喪失」を描いた暗黒物語である。
その構造は、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972年)と見事に重なり合う。マフィア稼業に何の関心もなかったカタギの青年マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)が、冷徹な計算と暴力によって次第にファミリーのドンへと登り詰め、それと引き換えに人間としての倫理と愛する者を失っていく。
アンドレアがあのままランウェイという巨大シンジケートに居続ければ、間違いなく第二のミランダ(=ドン・コルレオーネ)として裏社会に君臨していただろう。
盃としてのシャネルのブーツ、防弾チョッキとしてのプラダ
ノワール作品において、主人公が裏社会の掟を受け入れる最初のステップは、決まって「服装の変化」として描かれる。
当初アンドレア(アン・ハサウェイ)はダサいセーターで出社し、ミランダ(メリル・ストリープ)の不興を買う。仕事で決定的な挫折を味わった彼女は、業界で認めてもらうため、ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)に泣きついて全身をハイブランドで固める決意をする。
ここで衣装デザイナーのパトリシア・フィールドが見せた手腕は、単なる「お洒落な着せ替え」の域を完全に逸脱している。彼女は総額100万ドルを超える膨大な衣装を、アンドレアを組織に同化させ、その精神を組み替えるための洗脳ツールへと昇華させたのだ。
あの華やかなファッション・モンタージュは、決して女子力アップの素敵な魔法などではない。あれはマフィアの苛烈な抗争を生き抜くための防弾チョッキだ。フィールドは、シャネルやプラダといった一流メゾンのアーカイブから、あえて硬質で、隙のないシルエットを厳選した。
アンドレアが初めてシャネルのタイハイブーツに足を通すあの瞬間は、ヤクザ映画で言えば、親分から「盃をもらった」瞬間。美しいブランド品で武装を切り替えるごとに、彼女のカタギとしての人間性は削り取られ、組織の歯車としての純度が上がっていく。
パトリシア・フィールドの凄みは、ファッションを「自己表現」ではなく、他者を威圧し、己の弱さを隠蔽するための非情な制服として定義し直した点にある。
僕はファッションの知識が皆無なので、フィールドが用意した衣装の歴史的価値までは分からない。だが、服が洗練されればされるほど、アンドレアの目は冷酷に澄み渡り、猛スピードでマイケル・コルレオーネ化していくプロセスには、スリラー映画としての恐怖を感じざるを得なかった。
物語の終盤、アンドレアが纏う衣装は、もはや彼女の個性を消し去り、ミランダという独裁者の鏡像へと変貌を遂げている。フィールドが仕掛けたこの視覚的な罠こそが、『プラダを着た悪魔』を単なるサクセスストーリーではなく、一人の人間が組織の怪物に魂を売る「暗黒街の物語」へと変貌させているのだ。
ランウェイ=犯罪シンジケート
ミランダが支配するランウェイ編集部という空間は、絶対的なヒエラルキーによって統治された犯罪シンジケートの縮図だ。
ハリケーンが接近する中で飛行機を手配させられるのは、まだ序の口。双子の娘のために「未出版の『ハリー・ポッター』の最新刊を手に入れろ」と命じられるくだりは、見ていて胃が痛くなる。
かつて某テレビ局のバラエティ番組で末端ADとして泥水をすすっていた身からすれば、権力者からのこの手の無茶振りは、強烈なフラッシュバックを引き起こすトラウマ映像でしかない。
この理不尽極まりないミランダの姿は、不可能を突きつけることで、相手の底力を引き出す(あるいは完膚なきまでに叩き潰す)という、絶対的指導者の暴力的なふるまいそのものだ。
さらに恐ろしいのは、そこでは徹底した「個の剥奪」が行われていること。ナイジェルは、アンドレアを名前ではなく「サイズ6」という番号で呼ぶ。それは彼女を血の通った人間としてではなく、倉庫に並ぶ在庫や規格品として認識している証左だ。そして首領であるミランダは、歴代のアシスタントをすべて「エミリー」と呼び捨てにする。
これは、マフィアが下っ端の兵隊を使い捨ての道具としか見なさない冷徹さに通じる。『グッドフェローズ』(1990年)のようなノワール作品において、組織に属する者はファミリーの資産としての記号でしかない。
ミランダにとって、アシスタントの固有の人生や名前など知る必要はない。彼女たちが持つべきは、組織の歯車として機能するための規格だけであり、その規格に適合しない者は、名前すら記憶されることなく消去されるのだ。
中盤以降、物語はマフィア映画における「血塗られた出世街道」の様相を呈していく。過労とストレスで倒れる寸前だった不動の幹部、エミリー・チャールトンが交通事故で無惨にも戦列を離れると、補欠の控えに過ぎなかったアンドレアがその座を引き継ぐ。彼女は、かつての同志を足蹴にするようにして、業界の頂点である「パリ・ファッションウィーク」という名の頂上決戦への切符を手にする。
しかし、『プラダを着た悪魔』が凡百のエンターテインメントと一線を画すのは、頂点に達した最後の最後で、その組織論理を自ら破壊する点にある。
アンドレアは、ミランダの傍らで「自分もまた、邪魔な身内を切り捨ててきた怪物と同じ顔をしている」ことに気づく。その瞬間、彼女の脳裏に去来したのは、『ゴッドファーザー』(1972年)のラストで、冷酷な首領へと完成してしまったマイケル・コルレオーネの孤独な横顔だったのではないか。
栄光の絶頂で、彼女はあっさりと組織の制服を脱ぎ捨て、噴水の中に携帯電話を投げ捨てる。このパラダイムシフト——「自ら破門を選ぶ」という決断こそが、観る者に痛快なカタルシスを与えてくれる。
権力への決別。パトリシア・フィールドが用意した100万ドルの「鎧」を自ら脱ぎ去るその姿は、一人の人間が組織の怪物に飲み込まれる直前で、辛うじて己の魂を奪還した究極の「脱獄」だったのだ。
コンシリエーレ(相談役)の存在
キャスティングの妙も、本作を不朽のノワールに仕立て上げている要因だ。アン・ハサウェイの凄まじい執念と、メリル・ストリープの凍りつくような威厳。それに加え、エミリー・ブラントとスタンリー・トゥッチという鉄壁のバイプレイヤーが脇を固めている。
特にスタンリー・トゥッチ演じるナイジェルの存在感は絶大だ。彼はまさに『ゴッドファーザー』(1972年)におけるロバート・デュヴァルが演じたトム・ヘイゲン——一族の弁護士であり相談役であるコンシリエーレそのものである。
ナイジェルは、アンドレアに組織の教義を叩き込む伝道師だ。彼がいることで、「ミランダのやっていることは理不尽の極みだが、この業界が長年創り出してきた芸術性と歴史には、命を懸けるだけの絶対的な価値がある」という圧倒的な説得力が生まれている。彼は、ボスの暴力性を「崇高な目的のための必要悪」として翻訳し、未熟な兵隊に誇りを与える。
しかし、ナイジェルというキャラクターが最もマフィア映画的な悲劇性を帯びるのは、物語の終盤で見せる「裏切り」の受容シーンだろう。
彼は長年、ミランダという独裁者に忠誠を誓い、彼女の玉座を守るために泥を被り続けてきた。ようやく自らのシマ(自身のブランド)を持たせてもらえるという約束を取り付け、人生最高の瞬間を迎えようとしたその時、ミランダは自身の保身のために彼をあっさりと生贄に捧げる。
この展開は、マフィア映画における「ビジネスはビジネスだ(It’s strictly business)」という非情な格言を象徴している。どれほど功績を挙げた忠臣であっても、組織のトップが生き残るためのカードとして使われるなら、その命(キャリア)は一瞬で切り捨てられる。
自身の梯子を外されたことを悟った瞬間、ナイジェルが見せた「It’s okay」という微笑。あれは、組織の論理を誰よりも理解しているコンシリエーレだからこそ到達できた、あまりにも哀しく、冷徹な諦念の境地なのだ。
噴水に沈む携帯電話と、ノワールの重力からの生還
この息詰まるようなノワール的構造が絶対的な頂点に達するのが、パリの車中におけるミランダとアンドレアの息を呑むような最終対決である。
「エミリーにしたことは、かつて私がしたことと同じ。あなたは私に似ている」
ミランダは悪魔の微笑みと共に、決定的な宣告を下す。ここでミランダは、アンドレアがすがりついていた「ミランダに命令されたから仕方なかった」という自己正当化の言い訳を容赦なく引き剥がし、「お前は権力への欲求に屈し、自らの意志でその血塗られた道を選んだのだ」という残酷すぎる真実を突きつける。
もしこれがマーティン・スコセッシがメガホンを取った本物のギャング映画であれば、主人公はこの呪われた運命を暗い瞳で受け入れ、新たな冷徹なボスとして裏社会に君臨してジ・エンドとなるだろう。
しかし、アンドレアは最後に鳴り響くミランダからの着信(=悪魔からの呼び出し)を無視し、携帯電話をコンコルド広場の噴水に投げ捨てる。この決絶の行為によって、彼女はシンジケートの頂点に立つ権利を自ら放棄し、光の射すカタギの表世界への鮮やかな生還を果たすのだ。
煌びやかなファッションという極上のパッケージの裏側に、「権力構造への同化と、そこからのギリギリの逃脱」という冷酷無比なサスペンスの骨格が隠されているからこそ、『プラダを着た悪魔』は時代を超えて観客の心臓を鷲掴みにし続けるのだ。
参考文献・出典
- The Devil Wears Prada (2006) (AFI Catalog)
- The 79th Academy Awards (2007) (Oscars.org)
- The Devil Wears Prada (2006) (Box Office Mojo)
- Review: 'The Devil Wears Prada' (The New York Times)
- Patricia Field on the Costumes of The Devil Wears Prada (Vogue)
- The Devil Wears Prada Movie Review (2006) (Roger Ebert.com)
- 監督/デヴィッド・フランケル
- 脚本/アライン・ブロッシュ・マッケンナ
- 製作/ウェンディ・フィネルマン
- 制作会社/20世紀フォックス、フォックス2000ピクチャーズ
- 原作/ローレン・ワイズバーガー
- 撮影/フロリアン・バルハウス
- 音楽/セオドア・シャピロ
- 編集/マーク・リヴォルシー
- 美術/ジェス・ゴンコール
- 衣装/パトリシア・フィールド
![プラダを着た悪魔/デヴィッド・フランケル[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/51PSV6cR1XL._AC_UL640_FMwebp_QL65_-e1776252308849.webp)
![ゴッドファーザー/フランシス・フォード・コッポラ[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/61Xi5IgxjmL._AC_SL1137_-e1757544156680.jpg)
![グッドフェローズ/マーティン・スコセッシ[DVD]](https://popmaster.jp/wp-content/uploads/81HvOOKdXaL._AC_UL640_FMwebp_QL65_-e1771649568862.webp)